しつづけてくれますか? | ☆空飛ぶ もとちくれった 出張所☆

しつづけてくれますか?

chargeupさんの記事 を読んで、ずっと知りたい、理解したいと思っていたことが、少し頭の中でまとまってきたので記事を書きましたが、新たな疑問に出会い、ほんの少しの間、再度頭に戻し、もんでいました。新たな疑問というのは、こういうこと、つまり本質的な部分においての理解についてを、こういう場所に書き記すことが良いことなのか(自分自身の気持ちのうえで)ということです。けれど、今日は思いがけず、過去の自分に出会うことが出来ましたので、その記念にここに記すことにしました。

 私が理解したいと思うのは私のためであって、誰かのためではありません。理解したい、のは私であって、誰かが理解してください、と言ったからするものではないのです。理解してください、と言われたらもちろん理解しようとします。けれどそれは、その理解して欲しい、と誰かが言ったことを私が理解していないから私は理解したい、と思うのであって、理解したい、という気持ちは私自身に帰属するものでしかないのです。愛と理解と感情が切っても切れないものであることと認識しながらも別々にすることによって、何かがハッキリするのではないか、理解がひとつ進むのでは、と今の私には思えてなりません。

 
 理解を深めることに思考が向けば向くほど、何のために?と、それでは私の理解は誰が?という思いにとらわれ、どうしても進んでいくのが難しくなります。理解と愛と感情は深く関わっていると思う、けれどそれを別々のこととして、少しでもいい、出来ることはないのでしょうか?
 
 その後キラリさんの記事 を読み、ここでまた一つ私は考えます。愛なくしては理解はありえないのでしょうか。だとしたら自分とはかかわりのない人々のことは誰のことも理解することは出来なくなってしまう。それでは私は、この社会で理解を求める人に背を向けることしか出来ないのでしょうか。それともその中の、自分が愛を向ける人のことしか理解できないのでしょうか。

 
 過去に何度かボランティア活動に参加させていただいたことがあります。ボランティアには賛否両論あり、私はそのどちらの言うことも正直言ってよくわりません。私は私が理解したい、私の人生に必要だと思うから参加させてもらっただけで、それはもしかしたらただのエゴなのかもしれません。私は前にも記事に書いたことがあるように、愛や理解に見返りを求めてしまいます。小さな私はギブ&テイクでなければ、ただただ愛や理解を注ぎつづけることは出来ません。そんな私には出来ることはないのか私は知りたい。

 
 夫と出会う前にうつ病と診断されたときのことです。私はそれと意識していませんでしたが、メロスの一人に何度も「私はメロスにとって何」「私がそのままのあるがままの姿でいても私を友達として大切にしてくれるのか」と聞きました。それはもう何度も。さぞ迷惑だったでしょう。でも私はそれがどうしても必要だった。どうしても知りたかったのです。後になってそれは、私を世界一「理解しようとし続けてくれる」人を求めていたのだと知りました。私にとって愛は「理解し続けようとしてくれる」ことです。理解できなくてもいいのです。「理解しようとし続けて」さえいてくれれば。理解には双方に痛みが伴います。そして報われないことも多いでしょう。何も得られないかもしれません。それでも「理解し続けようとしてくれる」人が私は欲しかった。欲しくて欲しくてたまらなかった。

 
 「理解しようとし続けてくれる」ものに出会い、幸せになったら、そのことへの飢餓感はなくなると思っていました。それでも私は今も飢餓感を持っています。その飢餓感は全ての「ひと」に向いているように思います。たとえそれがかなわぬことでも、私はそれを求めています。そして誰かに対して求めるのならば、私もそれを出来るようになりたい。私も求められたときに、それとわかるように応えたい。私が理解したいと思うのは、その気持ちがあるからでしょう。人はみな求めていると思うのです。形や成り立ちは違くとも。


あなたの隣にいる人をあなたは「理解しようとし続ける」ことが出来ますか?
「理解しようとし続けて」いますか?



2005年7月13日(水)PM:10:43に上げた記事です。

最後2行がウザいです。知らねーよ。
表現力が追いついていないとも感じているのですが、この記事に書かれたことは
かなり自分の中の核に近い気がします。
善い悪いではなく、自己の欲求に従うからこそ尊重することも要求されるのかな。


あなたのためという思いやりならば、自分が様々な責を負うことは必要とされない。
と、いう暗黙の了解が世界の共通認識というのは説教族の説教族たるゆえんか。