












みっちです













数回に分けて、自分用に生い立ちを綴ってみようと思います。読んでも面白くなかったらスミマセン、まあ色々あったといえばあったので、お時間ある方はどぞ


生まれ→横浜市青葉区
9歳10ヶ月まで、18棟ある団地に住んでいました。
最寄り駅に近い産婦人科で産まれ、体重のグラフを大幅にオーバーしながら順調に成長しました

同じ路線の母の実家にはよく行き、記憶は曖昧ですが、私が2歳で亡くなった祖父がいつもいつも可愛がってくれました。
こたつの机の部分を斜めにしてくれて、滑り台にしてくれたな。
ひとつ上の学年の友達が多く、歩くようになってからは毎日毎日外で遊んでいたようです。
幼稚園に入るか入らないかくらいで、アイロンコードで縄跳びをして左足甲に火傷、ずっと残ってます(笑)
母曰く、周りの友達に兄弟が出来はじめ、何でうちには来ないの?と言ったらしく、4歳半で弟が産まれました。
自分でもおかしかった時期が、幼稚園時代。
元気だったし、比較的運動も工作も出来ました。
水泳とピアノも習ってました。
ただある時期、頭で思った悪いことを自分がしてしまったと思い込む時期がありました。
例えば、幼稚園のバスに鼻くそをつけてしまったとか。
実際してないんです。でもなぜかすごく罪悪感があり、母に話して幼稚園の先生に確認してもらっても、やっぱりなくて。
ビー玉を無くしちゃったとか、小さなことだし、自分でも嘘をついている意識はないんです。
当時母は保健所に相談したりしてたそうな。
今思うと自分でも不思議

幼稚園ではあと忍者ごっこをしていて高いところから飛び降り両手首骨折。そのままお泊まり会に参加。スイカ割りできず。
小学校は登校班。
団地の子はほぼ顔見知りでしたが、班は細かく分かれてたので、いかに早く学校に着くか毎朝競争してました。
行きも帰りも急ぐので、顔面から転び、鼻血だらだらで家に帰ることも多々ありました

入学頃から公文が習い事に追加。
週末や夏休みなんかは母実家によく泊まりに行ってました。
祖母と手を繋いでスーパーに行くのが楽しかったんです。
トランプや坊主めくりを一緒にやってくれたし、お風呂でも遊んでくれたし、公文も教えてくれた優しい祖母。
ある日の夕方、やたら外が明るいな、と思い、夕飯の支度をしていた祖母に伝えて一緒に見たら、「火事だよ!」となってすぐ外へ。
二軒となりが焼けてました。
私はおばあちゃんちがなくなっちゃう、とものすごく怖かったのを覚えていますが、そんな祖母は慌てていたのでしょう、テレビのリモコンと眼鏡ケースを持ち出していました


すぐに鎮火し、大丈夫でした。
小学生前半は何でも出来たけど、今の自分からすると面倒な部類の子だったんじゃないかと思います。
リレーとかマラソン大会とか一番じゃないとイヤでしたねー

男子に負けるのもイヤで、殴り合いのケンカもしょっちゅうでした。
仲も良かったですよ

週末、ドッチボールとミニバスを地域のチームでやってました。
毎日団地の子や少し離れたところの子、初恋の男の子……色々な人と色々な場所で遊んでいました。
3年生の担任の先生にはとてもお世話になったというか、運命的な出会いを感じます。
毎日のように漢字と作文の宿題を出されました。私はそんなイヤではなかったのです。
一年間何かを書き続け、私はその後学生生活でそういった課題に苦労することが全くありませんでした。
学年の終わりには、私の詩が、声優の野沢雅子さんのラジオで読んでいただけました。
先生のお陰だと思っています、ちょっと自慢


2年生の頃かな、私たち姉弟にとって唯一の従兄弟が別の棟に越してきました。
私の4つ上の男の子で、毎年一緒に旅行に行ったり、私は小学生時代だけ数年被ってたので、貸し借りしたりしてました。
3人兄弟のように育ったと私は思っています。
横浜市にいたときはとにかく活発な、好奇心旺盛な子だったなぁ。
4年生になり春、転校をします。
中学2年でも転勤で転校をします。
二十歳までの10年でがらっと人間変わります



