「三省堂国語辞書」第7版 (平成26年 三省堂)によると、小春日和とは、

十一月から十二月にかけての,よくはれた春のような感じがする,あたたかいひより。

だそう。

 

他にも、googleで小春日和と調べれば、

小春の頃の穏やかな気候。日本付近が移動性高気圧におおわれたような気圧配置のときに現れる。小春日。[季語]冬。(『大辞林 第三版』)「小春」については「初冬」(バックナンバー11/9)に少し触れましたが、陰暦十月を表します。そのころ(今年は11月10日が陰暦10月1日にあたります)のぽかぽかした陽気を「小春日和」と言います。

のような答えが返ってくる。

 

陰暦十月にはまだ少し早いが、今日は小春日和のような暖かさである。

まるで独房のような学生寮の部屋の中はいつもと変わらず寒く、その独房の窓から見える景色はいつものようにどんよりと曇っていたため、今日も寒そうだと憂鬱な気持ちで外にでると、ふと春の匂いがした。

気持ちの良い朝だった。

 

台風が近づいているようなので、台風による南風の影響?と思った。

 

お昼ご飯を食べた後、昔につけていた日記を振り返っていたら、George Orwell「1984年」を読んだときの感想が見つかった。この本を手にしたきっかけは、村上春樹さんの「1Q84」である。「1Q84」にすっかりはまっていた僕は、本屋でGeorge Orwell「1984年」を見つけた時に思わず買ってしまった。世界的な名作とは知らず、読んだ後に様々な人の感想や考察を読んで驚いた。

 

以下日記からの引用である。

 

ジョージ・オーウェルの1984年読了した。歴史的、世界的名著なだけあり、様々な感想を持った。
歴史的背景が色濃く反映されており、当時?の世界情勢を学んでいなければ本当には理解できないと思う。しかし、書かれている文書から、暗雲の立ち込めている薄暗く先行きの不透明な世界を感じることができた。
解説を読み、この作品の偉大さを知った。特に英語圏には多大な影響を与えているらしく、現代英語にもなっている造語がいくつかあるらしい。
面白かったのは、日本だけでなく世界的にも、有名な本を読んだかと聞かれた際に読んでなくても読んだことにしてしまう現象はあるらしく、イギリスで最もその現象が起こりやすい作品がジョージ・オーウェルの1984年だとのことだ。それだけ、読むべきとされる名著なのだろう。
ここまで、作品本体への感想が書けていない。正直難しく、内容に突っ込むことができない。なので、自分の中で最も印象に残った部分を書き残す。それは、主人公ウィンストン・スミスとジュリアの恋愛と物語本体に共通するバッドエンドな結末部分である。あそこまで、フラグ?をたてておいて、ウィンストンが予想していたように計画は失敗してしまう。いや、ウィンストン本人すらも失敗したあとに後悔する場面すらあった。この部分が恐ろしく印象に残った。闇に包まれて始まった世界が完全に闇に隠れて終わるという物語で一見クライマックスがない。というより、クライマックスはあるが完全にはひっくり返らない。のが、クライマックスになっている。この小説自体が当時のソ連の社会主義への風刺や警告を意味していると思う。実際、このようなことが行われていたとも思うし、これから起こることかもしれない。しかし、あの時代に双方向性のあるIoT技術(テレスクリーン)を書いているのはすごい。このような、監視社会はまさに今から始まるのかもしれない。少なくとも、当時はドラえもんの道具のようにありえない技術だったかもしれないが、今の世の中では十分にできてしまうのだから。

 

以上。

 

自分の知識不足から、この本のメッセージをほんの少ししか受け取れなかった気がする。

この本は、これから何度か読み返すことになりそうである。

生きているうちに(学生のうちに)この本に、出会うことができたことは幸せなことだと思う。

 

 

 

 

#自分メモ

袖振り合うも他生の縁 : 道で人と袖を触れあうようなちょっとしたことでも、前世からの因縁によるものだ。

 

人との繋がりやちょっとした出来事を大切にしたい。

寒い。

そしてこのどんよりとした天気。

やる気を出しさないといけないのに、どうもこの大量の鉛色した雲に吸い取られているようだ。

あまりに寒いから今シーズン初めてヒートテックを着る。

 

なかなか、スライドが進まないので、昔つけていた日記の中から本の感想を引っ張り出してきた。

皮肉なことに、「今日もいい天気」だと書き始めている。

以下日記からの引用である。

 

今日もいい天気だ。
湊かなえ「白雪姫殺人事件」を読んだ。湊かなえさんらしく様々人の目線に立ちその人の主観?を、他の第三者を、あえてつくらず(客観的な目線の心情を許さず)を淡々と記述し、読み手の中で作り上げていくミステリーだった。よくある通常のミステリーや探偵もののように解決役や主人公が起こっていることをまとめたり、物語の正義のポジション(物語の軸)に立ったりするのではなく、各々の主観をそれぞれの章で述べるだけというある意味では事実を積み重ねて解釈を読み手に委ねる(実際は事実ではなくあくまで個人の意見でしかない)(本作品では誰を信じるかさえも読み手に委ねている、さらに言えば正しいものはない可能性もある)スタイルで書かれていて、そこに本作品のテーマである(と考えられる)(作者の伝えたいことと考えられる)人の怖さが表現されている。
率直に感じたことは、他人(ひと)は怖い、自分は甘えて生きている、人間社会の中で生きていけないのでは無いかということである。
今までの自分の行いを振り返り、自分への怒りがでてきた。
映画版も見たが、美姫とダイアナが最後にアナログな方法を用いて、まだ心が繋がりあっていることを確認する映画に対して、原作は人生の1番の友人とも言えるダイアナにすら嫌気が差しているのでは?と思わせられた。(解釈はいろいろできそうだが)
湊かなえさんの作品は人間関係の恐ろしさを、生きていく自信がなくなるほど上手に描き出す。他人の考えを完全に理解することは不可能なことだと改めて思わされるし、言わなければ考えていることは伝わらないよと教えられた。

 

以上

 

素晴らしい作品に出会え、また人生が1つ豊かになった。

いつの間にか、10月である。

私は、冬が苦手だ。寒い。暗い。大変憂鬱である。

長野に住んでいた頃は、そんなに気にしたことがなかった。というのも、冬の長野(東信地域)はほぼ毎日晴れるのだ。

それに比べて、日本海側の冬は厳しい。もちろん寒さは長野ほどではないが、天気の悪さがこたえる。

夜鳴く虫の音色もだんだんと小さくなってきている気がする。無性に寂しい。暗く、長い冬がもうすぐそこまで近づいてきている。

 

そんな中、久しぶりに森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」を読んだ。なぜか無性に読みたくなった。人肌が恋しくなってきたからなのか。。。

 

ほんの数時間で読み終わってしまった。

もしかしたら、初めて読んだときは、読了してなかったかもしれない。
やっぱり森見登美彦さんが描く女性はすごく魅力的である。四畳半神話大系の明石さんもそうだがあの(いい意味での)変人具合が完璧。飾らない美しさ、他人への思いやりの深さ、人間としての強さ、すべてにおいて惚れてしまう。
また、主人公の男もよい。不器用ながら、直向きに恋する女性を追い求める姿が清々しい。


秋が深まる中、こんな物語を読んだらなんか、心の奥がキューンとなった。苦しい。

 

また、1つ人生を豊かにすることができた。

○自分メモ
一蓮托生 結果の良し悪しに関わらず、行動・運命を共にすること。
「僕たちは一蓮托生の仲じゃないか。」

最後の1ページで震えた。どうしようもない気持ちになり、(湊かなえ作品のほとんどがそうなように、良い意味で)やな気持ちになった。
あの彼女(美穂子)と、主人公深瀬はその後どうなったのであろう。

最後の1ページを読む前と読んだ後で感想を分けて書こうと思う。


〈前〉親友Sに紹介してもらったリバースを日曜日の午後にカフェ(スタバ)で彼女Mとコーヒーを飲みながら、読めたことを幸せに思う。読んだ環境が完璧だった。いつもながらに、考えさせられたし、自分に当てはめてしまいとても苦痛を感じながら読んだ。ここが湊かなえの凄さだと思う。本当にやだ、辛い、部分を自分が体験しているようにリアルに描きあげている。また、内容が実にリアルである。美穂子と主人公の関係についても見解が別れそうな部分である。個人的には、あれも一つのヒトの愛の形でよいと思う。実際現実世界においてもこんなことはあるのではないかと考えさせられる。コーヒーの描写が実に秀逸であった。物語にコーヒーの描写が常に寄り添い、比喩の役割を(暗喩)を果たしていた。自分自身もついコーヒーに凝りたくなってしまう。

〈後〉最後の数行でこれまでこの物語へ持っていた感想を破壊された。それはいい意味でもあるが、悪い意味でもある。本を読み終 えた今の段階でここの数行が必要かどうかを自分の中で結論付けることはできない。(ただし、作者はここをメインに書いている可能性、ここを書きたくてこの本自体を書いている可能性すらあるためあくまでも自分の意見、感想である。自分にこの物語にこの数行が必要か不必要かを論じる権利は全くない。)この数行の前までに持っていた感想を簡単にまとめれば、湊かなえらしい人間関ののやな部分を極めて素晴らしく表現しているにもかかわらず、最後がある程度ハッピーエンド?なのかなと思わせてくれていて、みみやすさもあるとてもいい作品だというものである。しかし、この数行でそれらの感想は勝手に作り上げられた好都合な終わり方ああることを突きつけられる。最終的には、いつも通り辛くやな気持ちにさせられ、とてつもないモヤモヤを持たされる。いや、むろ、少しの希望を持ってしまった分、辛さが増してすらいる気もする。物語の展開としては、ミステリーにとても凝っているわけははなく、話もシンプル、事件も一つである。また、少々登場人物の数は多いが、複雑になる程ではない。それが余計に、ここの結末に感情移入をさせられてしまい、どうしようもない感情にさせるのである。この主人公はこの後どうなったのであろう。彼女とはままくやれるのだろうか。この話を聞いた彼女は何を主人公に伝えるのだろうか。そんなことを、つい考えされられてしまう。人ははハッピーエンドを勝手のうちに望んでしまう。(僕だけ?)主人公の無知故の罪?(罪といえるか?)は、主人公の心にとてつもいいダメージを負わせたであろう。まるで、東野圭吾の真夏の方程式の少年が大人になって、自分の無知故に犯してしまった罪に気ててしまったときのように。この主人公がその後彼女と一緒に幸せに生活できることを願う。

 

こんな素晴らしい作品に出会えて、また1つ人生を豊かなものとすることができた。

こんにちは。

 

私は、某地方国立大学で天文学を研究している大学院生です。

 


タイトルのだいがくせい鳥クロニクルは、僕の好きな村上春樹さんの小説「ねじまき鳥クロニクル」からいただきました。

 

多くの鳥は「鳥目」という言葉があるように明るい時間に活動をします。

 

しかし、僕の周りには一晩中明るい火力発電所があるせいで、夜中にも関わらず活発に活動する鳥たちがいます。

 

鳥たちにとってストレスが多い環境に思え、つい心配になってしまいます。

 

その鳥たちはまるで大学生のような昼夜逆転生活をしているなーと思い、ねじまき鳥クロニクルに出てくる登場人物たちの真似をしてだいがくせい鳥と名付けました。

 

その鳥の鳴き声を聴きながら生活している僕の日記ということでだいがくせい鳥クロニクルというタイトルにしました。

 

クロニクル(年代記)というとtime scaleが大きいイメージがあり、日記(dialy)とクロニクル(chronicle)では少し違う気もしますが...

 

このブログ内で時間の経過があることからそうしてみました。

 

あまりよくなさそうだったらすぐに変えようかなと思ってます。(笑)

 

 


ここでは、読んだ本の感想、チョビ(ハムスター)のお世話記録などをゆるく書いていこうかなと考えています。