『amjad』La La La Human Steps | アマヤドリ

『amjad』La La La Human Steps

ラララを観るのは10年ぶり。
10年前もBSか何かで放送していた抜粋を観ただけなのでひとつの作品として観たのは初めてでした。

身体の想像力を超えたスピードでのピルエットや足さばきには息を飲むしかない。
日頃どんな稽古をしているんだろう。バーとか10倍速でやっているんじゃないかなぁ。軸もほとんどまったくぶれることがないし。
ひとは果たして訓練でこんなふうになれるものなのだろうか。

輪郭を際立たせるような照明も、その身体の動きの構造、奇跡を記憶に写しこむのには効果的。
上手から、下手から、とあてる方向を変えることでがらりと印象がかわる。
舞台上のふたりの関係性もかわるし、それを観ている観客との関係も。
光ってすごい。

アフタートークでエドゥアール・ロックが「ひとは感じたり考えるということ、精神や記憶というものがこの頭のなかにあると思っている。でも実は太古の昔からこの連綿とつづいてきているからだこそにそれがあるんじゃないか」というようなことを言っていた。
フェルデンクライスのことをふと考えたりした。

この作品は音楽と振付けの間に乖離があるように感じていて(ロックはアフタートークで振りと音楽は必ずしも関係がある必要はないと言っていた)そのことがダンサー自身の呼吸のような情感を感じ取るには少し遠すぎる気がしていた。
けれど、共感できないくらいスーパーな動きを重ねているにもかかわらず、やはりその身体のパターンを見つめている私自身から常になにかが沸き起こる。
もしかしたらその感触は、いつも感じる舞台のそれよりもずっと本能に近い部分だったのではないかなぁということを考えた。
生の部分を極限まで削った結果、観客の一番深いなまなましいところを揺るがせる。
すごくおもしろい。

ひとはパターンを見つけることの天才だな、ということも考えた。
まったくのカオスの中ではなかなかそのどれかをこころに留めることが難しい。(カオス、というそのこと自体を引き伸ばせば別の話。それ自体がパターンになる)
秩序のないところにルールを見つけるととたんにおもしろく感じる。
でもそのことにすぐ飽きてしまいもする。

あと、男性が上半身裸で、白鳥の音で、腕を頭の後ろに回してくちばしのようにかたちづくると、アダム・クーパーをどうしても連想してしまって一種のパロディみたいに感じてしまう瞬間があった。…のは私の勉強不足からくる狭い固定観念のせいかもしれない。
でももちろん、おそらくそれももしかしたら含めて考えられていたのかもしれないとも思う。
あえて白鳥と眠りをもってきたロックだもの、考えなかったはずはない。

パロディをパロディと認識せずにやってしまうことは創り手として恥ずかしいことだけれど、それをうまく使うことができたらおもしろい。


10年前に私がルイーズの踊りを観たときに感じた、内側に爆発したいような情感を含みつつそれをからだという拘束から解放することができない、動きは爆発的なのにそれ以上のほとばしりを皮膚いちまい下にたぎらせつつこの身体にとどまるしかない、みたいな熱が、今回のからだたちにはあまり感じられなかった。
ロックが創るものがそうかわってきたのか、ルイーズがそういうダンサーだったのか、わからない。
どちらも素敵だけど。
でもルイーズのあの熱いバネみたいなものをまた観たいと思ったのも事実。