石の蔵で
宇都宮まで友人の舞台を見に行きました。
宇都宮ってとても遠い!驚きました。
新幹線でいけばすぐなんだけど鈍行でいくと5回くらい乗り換えなきゃいけない…んだけど、空いている電車にぽやーっと座っていることは好きなので苦ではありませんでした。
なんでもその舞台はアートフェアの中のひとつの出し物だったので、時間になるまで出品されている細々としたものを見たりタイカレーを食べたり。
会場である石の蔵によく馴染むやさしい作品ばかり。
私はきりんややぎや鳥の絵はがきを、友達はシンプルで可愛らしいおうちのかたちの箸置きを買いました。
で、友達の作品。
前々から絵とコンテンポラリーダンスのコラボレーションだということをきいていてすごく楽しみにしていた。
ただ同じ時間や空間を絵描きさんとダンサーとが共有する…という同時進行のものは見たことがあったけれど、そういうんじゃないよ!と本人が話してくれていたから。
Yちゃんの絵はすがすがしい気持ちの時に眺める雨の牧場のようなかおり(『対岸の彼女』という角田光代さんの本の表紙を、彼女はえがいています)。
キャンバスにきゅるきゅる音をたてながらその風景があらわれてゆくさまはとても素敵でした。
なんだか思い出がどんどんクリアになってゆくような、積もってゆくような。
お寿司屋さんの職人が寿司を握ったりさかなを薄く切り分けるところとか、ピアノを弾く人が音を試すために指を鍵盤におとすのとか、その道のひとがそのものを慣れた様子ですすめていくさまはとても美しいと思う。
いい字を書くひとがどんどんくりだす文字とかも、見ているの大好き。
そんなふうに、しゃわしゃわいう音とともに生まれてゆく景色。
ダンサーのKちゃんはとても細かな余韻の残し方をする動きで、次々に、どんな展開があるのかと目の離せない踊りでした。
絵とおどりと、どちらもを同時に見たくて、けれどどちらかに見入ってしまうというジレンマ。
Kちゃんは猫のようだった。おとなになる直前の猫。
しなやかなラインがそう感じさせたのはもちろんだけど、あのキュートさはやっぱり性質からのもの…なんだろうなぁ。
可愛いって変な感想だけど、愛らしさがにじむ動きって誰にでもできるものじゃあないと思う。
後ろに流れる遠いアジアの鈍色の小鐘のシンプルな音と、キャンバスをこする直線的な、衝動的な音。
Yちゃんの縦横の動きとKちゃんの流動的なパターン。
おもしろいなー、と思って見ていたら、ラストに見事に今までの踊りの軌跡がばんばんと留められて、ああこれか、と納得させられました。
終わってから2人と話してKちゃんが、今の不安定さが踊りに出ちゃった、と言っていたけれど、そのこころの有りようがからだにひびくことが、私にはすごいことだと思えた。
私はといえば感情や感動と肉体のあいだには遠いみちのりと分厚い鈍い壁があって、すんなり映ってくれたりしない。
もしかしたらKちゃんにとっては納得のいかなかったことかもしれなくても、今の私には、そのからだのクリアさは大切なことのように思われた。
自分が求めてることだからって、そのことだけで評価をするのはあさはかかもしれないけれど、でも。
毛糸がほぐれてくる前の時間はもう少し短くてもよかったかもしれないね、と帰り道話していました。
おもしろい動きでもある一定の時間見ているとそれに慣れ、おもしろいのにただ流して映るようにして見るようになってしまう。小さな変化も、それごとがひとつのパターンとして繰り返されるように、感覚するようになってしまう。
決して飽きたりはしなかったけれど少し削いだら、より鮮やかだったのかも!って。
…なんていってはみたけれど、Kちゃんの動きはもっともっとみていたかったのだけれど。実際には。
お疲れさまでした。
素敵だったし、次またどんな作品ができるのかなあって楽しみにしています。
ぜひ私も一緒に踊らせてほしい!!って、ずうずうしくおこがましくここでお願いしたりして。
自分にはなにができるだろう。
少しずつとっかかりに気付いている(気付かせてもらっている、が正しい)のも感じている。
なにか、なにか。
宇都宮ってとても遠い!驚きました。
新幹線でいけばすぐなんだけど鈍行でいくと5回くらい乗り換えなきゃいけない…んだけど、空いている電車にぽやーっと座っていることは好きなので苦ではありませんでした。
なんでもその舞台はアートフェアの中のひとつの出し物だったので、時間になるまで出品されている細々としたものを見たりタイカレーを食べたり。
会場である石の蔵によく馴染むやさしい作品ばかり。
私はきりんややぎや鳥の絵はがきを、友達はシンプルで可愛らしいおうちのかたちの箸置きを買いました。
で、友達の作品。
前々から絵とコンテンポラリーダンスのコラボレーションだということをきいていてすごく楽しみにしていた。
ただ同じ時間や空間を絵描きさんとダンサーとが共有する…という同時進行のものは見たことがあったけれど、そういうんじゃないよ!と本人が話してくれていたから。
Yちゃんの絵はすがすがしい気持ちの時に眺める雨の牧場のようなかおり(『対岸の彼女』という角田光代さんの本の表紙を、彼女はえがいています)。
キャンバスにきゅるきゅる音をたてながらその風景があらわれてゆくさまはとても素敵でした。
なんだか思い出がどんどんクリアになってゆくような、積もってゆくような。
お寿司屋さんの職人が寿司を握ったりさかなを薄く切り分けるところとか、ピアノを弾く人が音を試すために指を鍵盤におとすのとか、その道のひとがそのものを慣れた様子ですすめていくさまはとても美しいと思う。
いい字を書くひとがどんどんくりだす文字とかも、見ているの大好き。
そんなふうに、しゃわしゃわいう音とともに生まれてゆく景色。
ダンサーのKちゃんはとても細かな余韻の残し方をする動きで、次々に、どんな展開があるのかと目の離せない踊りでした。
絵とおどりと、どちらもを同時に見たくて、けれどどちらかに見入ってしまうというジレンマ。
Kちゃんは猫のようだった。おとなになる直前の猫。
しなやかなラインがそう感じさせたのはもちろんだけど、あのキュートさはやっぱり性質からのもの…なんだろうなぁ。
可愛いって変な感想だけど、愛らしさがにじむ動きって誰にでもできるものじゃあないと思う。
後ろに流れる遠いアジアの鈍色の小鐘のシンプルな音と、キャンバスをこする直線的な、衝動的な音。
Yちゃんの縦横の動きとKちゃんの流動的なパターン。
おもしろいなー、と思って見ていたら、ラストに見事に今までの踊りの軌跡がばんばんと留められて、ああこれか、と納得させられました。
終わってから2人と話してKちゃんが、今の不安定さが踊りに出ちゃった、と言っていたけれど、そのこころの有りようがからだにひびくことが、私にはすごいことだと思えた。
私はといえば感情や感動と肉体のあいだには遠いみちのりと分厚い鈍い壁があって、すんなり映ってくれたりしない。
もしかしたらKちゃんにとっては納得のいかなかったことかもしれなくても、今の私には、そのからだのクリアさは大切なことのように思われた。
自分が求めてることだからって、そのことだけで評価をするのはあさはかかもしれないけれど、でも。
毛糸がほぐれてくる前の時間はもう少し短くてもよかったかもしれないね、と帰り道話していました。
おもしろい動きでもある一定の時間見ているとそれに慣れ、おもしろいのにただ流して映るようにして見るようになってしまう。小さな変化も、それごとがひとつのパターンとして繰り返されるように、感覚するようになってしまう。
決して飽きたりはしなかったけれど少し削いだら、より鮮やかだったのかも!って。
…なんていってはみたけれど、Kちゃんの動きはもっともっとみていたかったのだけれど。実際には。
お疲れさまでした。
素敵だったし、次またどんな作品ができるのかなあって楽しみにしています。
ぜひ私も一緒に踊らせてほしい!!って、ずうずうしくおこがましくここでお願いしたりして。
自分にはなにができるだろう。
少しずつとっかかりに気付いている(気付かせてもらっている、が正しい)のも感じている。
なにか、なにか。