音の消えない部屋
ヤンソンを好きだと言ったら、そのことが少し恐くなる、と言ったひとがいた。
女のひととしては強すぎるし彼女は瞳に自然のことばをただ純粋に映したがっているように見えるから、と。素敵だしわかるんだけど、なんかね。と。
私にとってはもっとなまなましく豊かなその姿がそのひとには清冷すぎ、輪郭が際立ちすぎるように見えたのかもしれない。
そのことばを聞いたときに深く打たれたことを覚えている。
もっとヤンソンを読めば魅力がわかるかもしれないのになぁと笑いながら。
私がわたしのなかにそれを宿すことと、たとえば隣にいるひとがそれを宿してひとりで立っているのを見ていることとの、この決定的な違い。
隣り合っていてもわかりあえないことのかなしさのことではない。
触れたいからこそ知るすれ違いと、けれども「触れたいしつかんでおきたい」と願いあえる、ひとを想うことのやさしさと切なさみたいなもの。
それがうみだすしんとしたなにかは、とおくとおく落ちて揺るがし、ひろがった波紋は今でも続いている。
誰にも理解されないでもいいなんて、ひとりの人間としてもなにかを伝えるものとしても最終的には考えたことはない(いじけてそんなことを思ったことは、あるかもしれない)。
でもほんとうに世界に深く結び付いていたいと願うならば、こんな気持ちの震えこそ、誠実にとっておくべきなのじゃあないかな。
私にとってはそれがとても大事なことのような気がしてる。近ごろますます。
私にのばされた手はおずおずしているかもしれないし待って、と囁く声は小さい、けれども実はこころのかぎりのそれより大切なものなんか、そうそう、ない。
もしかしたらそんなものの残像やこだまで私はできているのかもしれない、と思うくらい。
もしかしたら発したひとも忘れているかもしれない。
罪ほろぼしをしたいわけでもなくて。
いつまでも響くから。
