ひふより外、景色より内
楽屋で友達に、ずっと訊きたいと思っていたんだけど私の名前は何色?ときかれ、あたたかいチャコールブラウンの下地によく陽に当たったふんわりした細かな苔のような名字、クリアケースみたいに少しすりガラスの曇りを持ちつつ透明感と艶のある赤みのオレンジの名、だと告げた。
そのことがあったからだろう、うちに帰ってお湯につかっているときにふと、ちいさなころ私は自分がもしかしたら色盲と呼ばれる色の見え方のひとなのかもしれないと考えたことがあったことを思い出した。
小さな点々が数字や文字をかたちづくっていて、そのまわりにほかのいろんな色の点々がとりまいている。多くの人が感じるのと近い色の感じ方をするならばおのずとそこに隠されている文字を読むことができるけれど、色に対する認識の違いで、それが読み取りにくくなる。
あの検査。
ランダムに点が並んでいて何も書いてないと判断するのが正しいページは、私にとってちかちかといろんな文字が浮かんでは消える…といったページだったし、緑の背景に赤で書かれた数字の6は、6なのに赤であるというところにひっかかった。
うしろに薄く見えている9のほうが正しい色だからそっちを答えればいいの?それとも6は深緑ですと言えばいいの?
いやいや、たぶんちがう。
でもでも。
…混乱のままここは普通の人はどう答えるんだろう、とじっと考え込んでしまう。
女の子には色盲と呼ばれる色の見え方をするひとは少ないそうだから、いつももういいよ、と言われたけれどなんだかちょっぴり悲しかったような気がする。
どうして当たり前に、さらっと答えられないのか…へんなひとなんだったら困るなあ、って。
だけどあの本のことは好きだったけど。
錯覚の本を見るみたいで。
でも実際のところ私が見えている、感じている色はどのくらい共通のものなんだろう。
犬の世界は白黒だという。
紫外線が見える虫もいるらしい。
じゃあ温度は?
奥ゆきは?
見て痛いとか、噛んで色がひろがるとか、そんなのを自分から切り離すことを子供の頃は楽だと思って、あえてしていた。
私が感じているのは実際ここにあるものとは無関係な感覚。だから大丈夫。なんてことないと思えばいい。
いつのまにかそこに慣れて、遠くに追いやっていた。
それをまた引き寄せて解き放ったのが踊りであり、ことばであり、ひとと話すこと、写すこと。なのかもな。
それともおとなになったこと、そのことじしん。
忘れていたものを取り戻すことでかえって、手放すことができる。
