『Life Casting-型取られる生命-』 | アマヤドリ

『Life Casting-型取られる生命-』

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友達の舞台を観に新国立劇場へ。
小劇場のほうは初めてだったので入り口にしばし戸惑う。

平山素子さんの踊りは今まで一回しか見たことがなかった。
とてもバランスのとれたからだと表面の涼やかさと包まれた熱のアンバランスさのようなものが、お世話になったひとによく似ている。
とてもストイックなひとだときいていたけれどからだを見て納得。なんて無駄がないんだろう。見本のようなライン。
だけどそこで、私はやっぱりすこしいびつなものに掴まれ、まっすぐ美しいものには距離を置く…という見方をするのかもなあということに思い当たった。
あまりにも整っていて、考えが行き渡っているものに接したとき、ほぉ、って見惚れる以上のものを要求してしまうのだと思う。もっともっと、って。欲張ってしまいたくなる。
どきり、ひやりとさせてほしいのかもしれない。
動かされる理由を欲しがっちゃうのかな。
とても綺麗だったし、始まってからずっと感じ続けたもんもんとしたこんがらがりは最後のシーンで氷解したけれど。


友達の出る2部目を見てやはり彼女の踊りは変わったなぁ、と思う。
シンプルになった…のかなぁ…核に近くなったかんじ。
もともと持っていたやわらかなものを引き上げ、でも覆ってもいたものを気持ち良く脱いで、素直に、透明感を増したかんじ。もしかしたら殻のようななにかが与えたものはそのままに。
纏っている彼女も好きだったけれど今はするんと心地よい。
こんなに変われるんだなぁ。
こころのことともこんなに繋がるんだ、と、彼女の敏感さを思う。

Mさんの踊りはとても動物ぽかった。よい意味で。舞台のうえでいちばん生きものみたいだった。
コンテンポラリーの舞台上のダンサーってすごく灰色だったり白だったり黒だったり、なんだかモノクロな存在として舞台に居るイメージが強い。パーツみたいな感じで。
それが嫌いなわけではもちろんない。
でも彼はなにかそういう空気を演じている気がしなくて…視線のやりかたとか、ちょっとした打ち破りの感じとか隙みたいなものにすごくひきつけられた。
隙というとなんだか悪いものみたい…隙じゃあないんだな、たぶん。なんて言えばいいんだろう。
作られたものを見せられている気がしない、意志をつなげなくてもそこに技巧なく有るもののゆとり、かなあ。
…理由を探そうとすると固くなっちゃってそれも違う気がする。
オランダで彼の本番を見ることができなかったから初めて舞台にあがったところをみたのだけれど、いいなぁ、好きだ、と思った。

Nくんは相変わらず艶やかに光る透明感だった。
どんどんどこまでものびて跳んでくれー!って思う。もっと見たいな。

Nちゃんさんの踊りを久しぶりに見ることができて嬉しかった。
勘や野性で踊る(ように見える)ひとが好きなんだな…きっと。
そこには理由はないから、好きは好き!と不動なんだろう。

酒井はなさんは想像以上のからだの使い方をするひとだったから驚いた。新鮮な嬉しい発見。


作品全体としてはもうひとつほしかったなぁ、と欲張りたいかんじ。
でもそのくらいの贅沢を言いたくなる、すごいダンサーとパーツだったということです。
次回があるなら是非また見たい。