日本芸能に触れた一日/弐
歌舞伎が始まった。
ぱっと目に飛び込んでくる、紙芝居みたいな舞台装置。
私はイヤホンガイドを借りていたのでその装置のことや、太鼓の意味や拍子木の音の意味を教えてくれる。
全然知らなかった。
独特のきまりごとが楽しい。
舞台でも、映画のようになるべく自然に、こう見えるように…って気を遣うところって多いと思う。でもこうして、これはこういう意味なのですよ。っていうのをお客さんとの間で約束ごとにしちゃっているところが楽しい。
ちょっとこういうところで野田秀樹を思い出した。どうしてか上手くいえないけど。自分の中でだけ共通点を見出したんだけどな…。
こういうとこ、うまく書けないからホント勉強不足なんだと思う。
黒子が出てきちゃって珠を飛ばすところとか、幕をぱっと切って落とす、カットインのような場面転換とか。
それが安っぽく見えない。
というか、演目全体を通して、高いところに有り過ぎないからだと思うけれど気安く見ていられるし、安心して笑うべきところは笑える。
とても自然だ。
長年の下地の強さだろうか。
きちんと、何をしたいのかが分かる。
ひきつけられたのは独特のセリフのリズム。
波のように、うねりのように、だんだん身体に馴染んでくる。
力のある人は、そのセリフの波を舞台全体を通した波として余韻を残す事が出来ている。
それを受けて、また返して。
独特のゆったりしゃべりをしているのは主役級のひとだけだった…のかな。高貴なひとのしゃべり方なのかな?
ちょっとわからないけど。
大きな波に包まれている、その余波が美しい。
日本って、消えそうなものとか、何にもないところに美しさを見出す。
日本画もそうだけど、人はわりと不自然な格好をしている。ヨーロッパの絵画って(近代のものではかもしれないけど)そういうのが少ない。
日本の絵は、自然さよりも作られた配置。
だけどそれが自然に見えるように、その空間をちょうど美しく埋めている。
これって生け花とか日本庭園にも言えることだなあ。
歌舞伎でもそういう一瞬一瞬がある。
ちゃんとそれが見えた時に、もしくはその均衡を破った瞬間に、はっとさせられる。
一番私がそれを感じたのは福助さんが演じた女踊り。
あんなわずかな動きなのにはっとさせられる連続だった。はっとさせられすぎてかえってぼおっとしてしまったというか。時間が経つのがわからないくらいだった。
それまでのシーンは絵の連続みたいな感じでとらえていたんだけど…全く違って、限りない連続の集合。いつのまにか次の魅せどころに入っている。
そのいつのまにか、の流れに半ば呆然としつつ見とれていた。
重心の移動の優しいこと。
計算され尽くしてるみたいには思えないくらいの何気ない軽いしぐさなのに、そこには全く隙がない。
いつ次の動きに移動したんだろ?っていうくらい。でもずっと流れていることを私は知っている。知っているのに。だまされちゃう。
対照への緊張に、ふっととけたときに初めて気づかされる。
魔法にかかったみたいに見つめちゃった。
面白かったのは屋根の上の格闘の場面。
傾斜した舞台であんなアクロバティックなことをするのは本当に恐いだろうな。
演者たちから見たらあれは相当な傾きのはず。
バレエの友達に聞いたんだけどヨーロッパの舞台のいくつかは傾斜している。たとえばコンクールで有名なローザンヌもそうなんだけど。ロシアなんか大抵傾いている。
そこで踊るのはとても恐いらしいし、負担もあるらしい。身体のバランスのとり方や軸もすべて変わるから、その舞台に慣れると普通の舞台に立ったときにおかしくなる、というくらい。
その傾きよりも大分大きな傾斜角度だったもんなあ。
染五郎さんはちょっと重心が高くて足の裏と床との仲良し加減が薄かったのだけれど、もしかしてあれは若いお侍さんだからそういう役作りをしているのかな。
相手役のひとの根の張ったようなエネルギーに、私は魅せられた。
「里美八犬伝」という演目のせいなのか、盛りだくさんの内容だったと思う。
入門にはとてもよい演目だった気がする。
仕掛けもあらゆるものを使っていたし、場面によっての工夫がそれぞれだったし、醍醐味を集めた感じ。
ああ、
面白かった。
また見よう。
やっぱり今、日本のなんだか分からない謎の魅力について、もっと知りたいかも。