コネクト | アマヤドリ

コネクト

200607141013000.jpg この夏は身近なひとびとが大きな転換期を迎えるので私はそれを見送るような気持ちになっている。会えるときは少しでも会いたいし、そのたびに、ちょっと大事なものを胸に仕舞い込んだりする。


今年の初めにも感じたことなのだけれどやっぱりこの1・2年は私にとっても私の周りにとっても人生の節目みたいだ。

しかも、今までこつこつためてきた努力とか、縁とか、そういうものが実を結んだり、兆しが見えてきたり、みんなが一様にそういう方向にばんばん膨らんでいっちゃっているので嬉しい。

きっとそういう風が吹いているんだと思う。

私もそこに乗っからなきゃ、って思っている。

そしてきっと私の周りにいる、今の苦労がなかなか芽を出さない、行き詰まりを感じている友達たちにも絶対新しい局面が来ると信じている。だから今苦しくても頑張ってほしいと思う。今どんな風にも動く事が出来なくてよどみの中でちょっと目の前が暗くても、近々水面から顔を出してちゃんと次の空気が吸える瞬間が来るよ、と確信してる。



でも考えてみたら人生は絶えずこうやって前進しているだけなんだな、という気もする。立ち止まっているように思えることなんていくらでもあるけど、実は小さな枝をちゃんと次から次へと渡っていて、ちゃんとちっちゃい実をその都度食べているんだと思う。それか、頬袋にしまうか。

実はそういう変化を感じ取ることこそ難しくて、だから、自分には何の変化もない、何も進歩していない、って憂鬱になっちゃうのかもしれない。

一刻いっこく、変わっていっている、その流れをちゃんと分かる能力こそが、そんな時には足りなくなっているのかも。

だってものごとを感じることってほんとうはとても難しい事だと思うから。

目に映ってもそれをたくさんの分散した情報としてしか脳みそに取り入れられないことがほとんどだ。ただ、見てる。輪郭も色も、ごっちゃに。星よりも遠くのものみたいに、同じ時間をかけてしか自分の中に到達しない。

でもちょっとした気持ちの持ちようで目に飛び込んでくるものが、時にはその全てが、意味を持ったり興味をひいたりすることだってある。友達と話してわくわくしているときとか、誰かを好きになったときとか、もしかしたらとっても辛くて仕方ないときとかにも。

そういう時自分をちょっと魔法にかかったような気持ちにさせて、自分が今ちゃんと感じているんだなあ、って意識する。

人生で立ち止まっちゃってそれをどうにか動かそうとする事とこの、何かを特別に感じている自分を意識するということは何か全然別の話みたいな気がするけれど、でも実は密接なんだという気がする。

きっと言葉にすると「幸せは誰にも測れなくて、自分にしか決められない」ということなんだと思うんだけど。


この感じる、ということを上手に出来ているひとが私から見てバランスがいいなあとかセンスがいいなあと思える人なんだろう。


分かっている。

私は無頓着じゃいけないところまで、ちょっと自分の力で無頓着になろうとしてきてしまった。

感じる力はちゃんとあるはずなんだ。訓練されていないだけ。気づかない部分が多いだけ。網目が粗いだけ。

幸い、自分の駄目なところもたくさんわかっているし。



ああ、そうか、これは踊りも同じなんだなあ。

やっぱり人間の意識って面白い。

ぜんぶぜんぶ私のなかから生えた枝なんだ。



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写真は旅行に行ったときの朝ご飯音譜


…ではなくて、友達にもらったお菓子のおまけ。

お魚もちゃんとお皿から外れるし、お箸もつまようじより細いし、味のりもちゃんと袋に入ってるし、かまぼこもちゃんと切れてる。

お膳の一辺が4センチくらいです。

ミニチュアのものってどうしてこんなに心惹かれるんだろう。

さわりまくり。