クレイジーなバスタイム | アマヤドリ

クレイジーなバスタイム

お風呂で好きなCDをかけて踊った。湯槽につかりながらだからお湯がばちゃばちゃ大波小波ですごいことになってたけど。
たぶんあの姿をどっかから覗いたらいかれちゃったかと思われるかもしれない。


私だったらどんな風に作品を創るだろう。今の私だったらどのくらいのことができるんだろう。
そんなことをずっと考えた。

演出とか振付けというのはまず第一にその作品に対する深い理解が創り手になくてはならない。当たり前だけれど。ここであまりにも抽象的だと最終的な集約がなくなる…気がする。
うん、色んな方法があるのだし言い切るのはやめよう。もやもやを共に探ってすばらしい作品が生まれることだってあるのだし…。

なんとなくだけれど今まで私が関わったり話を聞いたりした創り手はそうだったから。心に残ってるということは私がやりたいのもこれなんだろう。

ちゃんと考えねばならず私がおそらくひねりだすのに苦労するのは、作品を踊り手に伝えるというその手法。舞台が組み上がる段階で、作品の理解が杭ならこの段階の表現は耐火被覆(なぜ建築)。
情熱だけ先走ってもついてくるものがなくては迷子にさせる。全て直接語ってしまって奥行をなくしてしまってもいけない。がんじがらめではおもしろくないもの。創り手は踊り手に思いがけないなにかを与えなきゃいけない。踊り手がお客さんに与えることと、少し似ている。
その面白みが相対することですべて練り直されることもある。ここにもライウ゛はあるんだ。

演出家はやっぱりちょっと参謀のような頭脳が必要で、私のように踊りのことに直情的にすぎるとうまくいかないんじゃないかなぁ…と…。いや、違うか。直情的はよくても、それだけじゃあだめ、ってこと。
私は誰かを踊らせるよりもやはり自分が感じるよくわからない、掴めやしないものをなぞって自分が踊ること、が一番合っているのかもしれないなあ、などと考えて。

そうしてお風呂で踊っていたのだ。



でも。
よく考えたら大きな舞台の振付けをするとき私はストーリーからちゃんとノートに記すのだった。
別に私は振付けにわかりやすいドラマをつけたりはしない。お芝居くさい踊りは、本当に上手にやらないと見ていて辛いから。私の力量ではまだできそうにない。
このストーリーは誰にも話さない私だけのモノ。踊り手へのヒントはここから生まれるのだけれど。

分厚いノート一冊になるくらいの振付けノート。


うん、そっか。
ちゃんと参謀になるべく下地を積んでいるじゃない。
ちゃんとそれが楽しいから…創り手になれないわけじゃあないかもしれない。



なにかを生み出したい。

今受けてばかりだから。だからこうやってたくさん日記も書いちゃうんだろうな。
つくりたい。
私のなかの旋律を。
それを断ち切る無音を。

そっか。
ここしばらくのもやもやって、もしかしたらこんな、吐き出したい何かだったのかな。
吸収しよう、新しいことに触れよう、知らない価値観を取り入れよう。
要求を理解して動こう、世界に飛び出そう、誰かと話をしよう。

そこには受け取ることがたくさんあって。
だけど受け取ったそれをどこにも還してなかった。
だからりんと澄み渡っているその水面下にどきどき、脈打つからまり毛糸みたいなものがあったんだ。

そっかぁ。私は創りたかったんだ。私の色をちゃんと、取り入れたもの全部混ぜたこのすこーし変化した私を、手のひらに絞りだしてよし、って確認したかったんだ。



書きながら気付いた。
たぶんあの気が触れたようなお風呂ダンスで毒が抜けたんだ。

できる。
別にね、よし、公演をうとう!とかそんなことじゃなくてさ。今の生活のなかで、変われる。今の踊りを変えられる。
全部繋がっているから…こんなふうに今気付いたことで練り直されることもたくさん。


どうせすぐ忘れちゃうんだけどさ。
でもだから進化があるんだ。稽古とおなじ。
何度でもまたもやもやごちゃごちゃして、そのたんびにまたクリアにしよう。

また、そのときは。
湯槽のお湯をこぼしちゃうかもな。