ユーリー・ノルシュテイン | アマヤドリ

ユーリー・ノルシュテイン

録画しておいたNHKのユーリー・ノルシュテインの番組を観た。


アニメ界では有名なひとであるらしい。
私も名前は聞いていたし興味があって展覧会の日時もチェックしていたが無知も同然だった。


今やアニメといえばCGを駆使したものが多いが、ノルシュテインは今でも全て手作業。作業台すら旧式の手動のもので、ハンドルを回してガラス板を上下させていた。

人物はパーツが全てばらばらの福笑いのようなものから成る。作業場の木の引き出しには主人公のあらゆる表情を持った手、目、などの部品がしまわれていた。
見た目は和紙に濃い鉛筆で書き、周りをぼかしながらちぎり取り個々のパーツにしたような感じ。
本当の素材はなんだろうか?セルロイドでできた背景の人々とは明らかにちがう。
顔の部品を福笑いのようにピンセットで重ね、微妙に動かしながら撮影する。

人物と背景とは3枚の少し距離を保ったガラスの板に載せられ、それを上から撮影することで遠近感やぼやける感じを出している。
なんて奥行が深いのだろう。煙るような、重たい霧のような…
つまり決して明るい画面じゃない。
さっきも言ったように和紙に濃い鉛筆で重ね書きされたような、そして黒い箇所を指でのばしぼかされたような画面。見づいほどに、暗い。

私はふとアレクサンドル・ソクーロフの映画を思い出した。あの、ソクーロフが日本のお婆さんを映したシーンを。
暗闇にろうそくの灯りだけで浮き出ているような人物の表情の陰影。密やかなのに伸びる影によっては大げさなまでの表情がそこに彫り込まれる。
もしかして昔の日本の生活と、ロシアのそれとは色合いが似ていたのだろうか?
うん、何となく日本もロシアも隅っこをあいまいにぼかすところがある気がする。隅にまで色彩が届かないというか…
西洋のように周りから照らされていない。揺れる灯りにひとは寄せ集まり、そうして小声で話す。
そしていつか、一人ひとり夜の闇へ溶けてゆく。

実際の人間には輪郭線がない。でも空気との境目とは、違う物質としての差が歴然としてある。
ノルシュテインの描くものはその輪郭がぼやけて、全てがちょっとずつその黒い霧のような画面のひとつづきであるように感じられる。いつでもそのもやもやの中に消えてしまいそうな。明るく滑稽な表情も、いつも実際には重たい空気とにくるまれているんだ、というように。
でも逆に、その黒くて強大な世界を背にしながらもここには小さな温かみが確かにある、ともいえる。
少し不安で、少し密接。
この何とも言えない温度は一体どう表したらいいんだろう。


ノルシュテインはゴーゴリの『外套』をもう何年もかけてアニメにしていて、まだそれは完成していない。ノルシュテイン自身この作品の完成を観ることができるのか不安だ、と笑っていた。

『外套』の主人公アカーキーの小さな灯りに照らされるその瞳は生身の感情を持っている。
あの潤み。
その細かい手つきや頬の微妙な、でも確かに覚えのある動きにはただただため息が出た。人以上に人間らしい、丁寧な息遣い。繊細な毛布のひだひとつ。


ノルシュテインが日本の若い世代のアニメーターたちに説いていたのは
“とにかく世界の小さなものごとを観察しなさい”ということ。

作り手はその主人公の全てを知らなければならない。とも言っていた。何度も前日の考えを捨て、繰り返し練り直し、本当に命を持つのを見守る。

それからもっと勉強しなさい、とも。
小さな殻に閉じこもって誰にも理解されなくてもいい、どうせ伝わらない、と思っているのは勉強不足で自分に自信がないからだ、と。
身につまされる言葉。

ほんとのことを急いで理解することはできない
でもちゃんと取り入れて、それが熟成されるまで考えなければいけない。ひとりで、ではなくちゃんと世界に触れながら。

ものを作るときには特に奇をてらわなくてもいい。劇的でなくても。新しくなくても。
ちいさなさりげないなにか、命を与えたいと思った何かが重要なんだろう。そして自分の在り方。
自分の信じた世界でちゃんとふつふつ煮詰めたものならば、きっとほんものだ。


恐いな。
やはりものをつくるのは、全部、だから。
うん、私が恐いと思うこのことも、私が勉強不足だから。どこかにうまく逃げようと思ってるから。
わかってるんだ、そんな時にうまれたものがちゃんと命を持たないということは。


世界をみよう。
目を覚まして。
塞いだ耳から掌を離して。



『霧のなかのはりねずみ』という作品がものすごく可愛かった。