チハ、369です。

 

先日、ふと思い立って、

 

車に乗って、石上神宮にお参りした帰りに、唐招提寺に行って来ました。

 

石上神宮や大神神社は、物部氏ゆかりの神社で、私の好きな神社です。

 

平成天皇からの皇位継承が目前に迫っていますが、

 

皇位の証しの神器は、もともと物部氏の所有物であったという説もあります。

 

石上神宮に行くと、藤原氏によって歴史の闇に追いやられた物部氏の

 

呪術的なパワーが感じられるような気がします。

 

 

一方、唐招提寺は、石上神宮から1世紀近く時を隔てて建立されたお寺ですが、

 

そういうシャーマニックな雰囲気はまったく無く、

 

洗練され、体系化された文化のスタイルを感じます。

 

鑑真は、五度の渡航失敗にもめげず、日本に渡って、

 

あまたの教典や、王羲之の真蹟、建築技術、彫刻技術など、

 

玄宗皇帝時代の唐の高い文化を日本にもたらしました。

 

同時に、鑑真が「薬王」という名前が与えられるほどの名医であったことは、

 

あまり知られていません。

 

来日してまもなく、聖武天皇の后の難病を治癒したので、

 

天皇は喜んで、大僧正の位を授けたが、鑑真が辞退したので、大和上の位になったようです。

 

鑑真は、あらゆる薬草、薬石に通じていて、

 

来日に当たっては、たくさんの薬も持ち込みました。

 

鑑真は、その中でも特に鉱物系のエレメントの権威だったようです。

 

鉱物系のエレメントを摂取することは、当時「服石」と呼ばれ、

 

効き目は目を見張るものがあるが、副作用も強く、

 

注意深く処方しなければいけない薬剤だとされていました。

 

鑑真の処方を記録した書物『鑑上人秘方』は、すでに散逸していますが、

 

日本最古の医学全書『医心方』に引用が残っているようです。

 

薬石は、金、銀、水銀、緑青、雲母、磁石、硫黄、水晶、珊瑚など、

 

80種類を越えるそうです。

 

その中でも、最も「取り扱い注意」の薬石は意外にも鍾乳石でした。

 

「乳」と呼ばれた鍾乳石は、三斤を処方すれば、

 

五百年後に墓から掘り起こしても、すぐに生き返るといわれているほど、

 

霊験新たかな薬石でしたが、薬害も大きいので、

 

服石後は仙人のような生活を送らなければいけない、と、いわれていました。

 

服用後の悲愁や哭泣、怒り、性交等は薬害を呼ぶということで固く禁じられました。

 

鍾乳石は炭酸カルシュウムです。

 

ホメオパシーではCalc.やCalc-p.など初心者でも気軽に使えるレメディーですが、

 

服石では、使い方をあやまると、死をも招きかねない劇薬と考えられていたようです。

 

『医心方』を現代訳した槙 佐知子さんの本『医心方の世界』には、

 

服石の禁忌からすれば、和上の渡海そのものが禁忌に触れるものであった。

 

それが鑑真を失明に導いたのではないか、という見解が述べられていました。

 

弟子の栄叡に乞われて、日本に戒律を伝えようと決心したのが55歳。

 

五度の失敗を乗り越えて、日本に着いたときには、すでに67歳を迎えようとしていた鑑真。

 

栄叡の死に際して流した涙は、まさに哭泣の禁忌を破るものだったでしょう。

 

 

  若葉して、おん目の雫ぬぐはばや     芭蕉