
この歌集を読みはじめてすぐに、ものの出し方や言葉の選び方が巧いと思った。
・白シャツの袖口すこし濡らしつつ仕事ののちの手を洗ひたり
・透きとほるグラスのなかの透きとほる水をからだに注ぐ八月
・ほつほつとおにぎり握り五つ目のころにわが手もおむすびになる
お金の歌や仕事の歌も珍しい題材だなとは思ったけれど、そういう歌よりも「自分」に向かう歌が響いた。そして、過去が過去になっていないような気がした。過去が宙ぶらりんになっている。
・セーターの小暗きなかをくぐりぬけ百年前の冬へ出でたり
・冬の蝶すれちがふゆふ 椀の蓋とればきのふに湯気届くなり
二首目の「きのふに」に立ち止まる。きのうの湯気ではなくて、きのうに湯気が届くというのだ。時間の流れが過去から現在にそして未来に流れているのではなく、遡ったり逆流したり自在に行き来している。
14歳のときに白血病にかかって闘病していたときの歌も、現在形で書かれているので、まるで現在のようで生々しく傷みや窓や光がまっすぐに読者に届く。
・夏はいつたいどこからにほふ手のひらの錠剤すこし湿り気のあり
・ああここは空の入り口洗面室の小窓の先に夏がひろがる
仕事の歌も家庭の歌も暮らしのなかで地続きであるのに、自分の歌は誰も入れない、遮断された世界のように思える。私はそういう歌にとても惹かれた。仕事と暮らしは一方方向に時間が流れ、それとはべつの時間や世界を持っている。
・一脚の椅子置かれたる夢のなか訪ふ人のなく夜は明けたり
・紺色に夏は来たりぬあさがほはみなひとつづつしずかな泉
・足裏を大きく見せて赤鬼が走り抜けたるのちのゆふやけ
・わたしからとほく離れたたましひがさいごに照つて海に降るなり
でも、歌集の最後のほうに夫の歌が並んでいて、この一連はどうなのか、
・かうやつて二十五年が過ぎまして あなたのことはやつぱり好きだ
・対きあつてこなかつたこと、いくつかは そして並んで餃子を包む
餃子の歌はこの歌集の最後の一首。告白みたいに終わるのか、となんだか腑に落ちない気持ちになった。そして、タイトルの『世界を信じる』に戻って考えた。そもそも何も考えずに生きていたらわざわざ信じるなんて言わないんじゃないか。あたりまえだったら「やつぱり好きだ」なんて書かないんじゃないか。世界を信じられない長い時間がこの人にはあったんじゃないか、好きだってことを刻んでおかないとこの先生きられないような気持ちがあるんじゃないかと思った。
そして、斎藤さんの著書『やっと言えた』を買って読んだ。それで、なぜ私が斎藤さんの仕事や家庭の歌をスルーしてそこに流れるふたつの時間が気になったのか少し理解できたように思えた。過剰に思えた夫の歌もタイトルへの不思議さも。
ほかの人はこの『世界を信じる』という歌集をどう読むのか。それが気になって、このあいだ東京で開催された批評会に参加してきた。パネリストは内山晶太さん、松村正直さん、小島なおさん(司会兼任)。この三人のバランスがとてもよくて、持論展開の時間が少なめで、お互いの読みに対して議論する時間が多くとられていたところがよかった。
参加者も話をききながら、頷けるところと疑問に思うところがそれぞれある。そこをうまく小島さんが掬い取って疑問を投げかけて議論を深めていって、聞いているほうもどんどん引き込まれていった。終わったとき、もっと聞いていたい気持ちになったし、参加してよかったと心から思えた。自分がこれから歌を作るヒントもたくさんもらえた。斎藤さんの歌を丁寧にみなさんで語られて、とても嬉しかった。
とても久しぶりな人にもたくさんお会いできたし、初めての人とも懇親会や二次会でいろいろ話せて楽しかった。本当に充実した時間だった。