友だち、と言える人。
親友、と呼べる仲。

Facebookの友達申請。
ブログのフォロワー数。
LINEの登録者数。

「友人」の定義は実に広い。
後者の「ネット上のつながり」は、
ここでは友人にカウントしません。

聖書の時代は、ネットなんか、
なかったですしね。

聖書も人間関係で普遍的なアドバイスを
しています。

賢王ソロモン王

「互いを傷つける家族もいる。
一方、兄弟以上の絆で結ばれる友もいる」

「真の友はどんな時にも愛を示す。
苦難の時に頼れる兄弟だ」

美しい友情です。
でも、友人であっても他人です。

時には適度な距離感も大事。

同じくソロモンの伝道の書は

「あなたの仲間の者の家に足を運ぶのは
ほどほどにしなさい。あなたに飽きが来て
却って憎まれないようにするためだ」

何でもベッタリされ、依存される側は
たまったもんじゃないです。

「既読にならない」
「既読スルーされた」
一喜一憂はアホらしい。

自分は自分ですよね。。

その強さを持てるか。

「友を得るには友となれ」という言葉。

声をかけられるのを待っていても
友だちはできない。
同年代の友人だけを欲しがっていても
望ましい友ができるとは限らない。

類は友を呼ぶ、と言いますが、
同じ年代・レベルの世界で完結しては
成長は見込めません。

自分から積極的にアプローチ。

よく共通の趣味で知り合って意気投合した
友人がいるとします。
でも、付き合いを深めていくうちに
価値観が合わなくなってきて、
やがて会うのも苦痛になることがあります。

趣味が合う≒友として分かり合える

ことはありません。
ただそこに「趣味」というプラットホームに
乗り合わせただけで、きっかけにすぎません。

よく
「ママ友との付き合いが苦痛」
という話を聞きます。

では、

ママ友とは一生の付き合いになるのでしょうか。
卒業・卒園したら終了~ ですよね。

「時限性友人」です。

その中から分かり合える友を見つけられたら
それこそめっけもんです。

「友だち」とはその時々で変わっていきます。

一生の友・親友なんぞはごくわずかです。
人間は最期は一人で死にます。

失礼な言い方ですが、、
自分には「用途別」に友人がいます。

「趣味でつながる友人」

「同僚でも特にウマが合い時間外に

付き合う友人」

「共通の教会に通っている友人」
その中でも
「本音や悩みを話せる友人」はそう
多くはいません。
同じものを信じるクリスチャンで
あったとしても、です。

育った環境も違いますし、どういう
きっかけでクリスチャンになったのかも
様々。

年齢を重ねると親きょうだいにも
本音は話せなくなります。

これまたひどい話ですが、、

自分を「親友だ」と言ってくれる
ありがたい友人がいます。

けれども、こっちはそんなに
心開けないんです。
なにか違う。

自分の登山仲間なんですけどね。

自分は親友だと思っていても、
相手がそう思ってないことも
ありました(笑)

なので過度な期待をしすぎると、
失望するだけです。

「プレゼントしてもお返しがない」
「せっかく誘ってやったのに断られた」
「手紙を出したのに返事がない」

 

~してやったのに。

実に自己本位な言葉。

相手の反応をいちいち見ないこと。
いちいち見ていたらネガティブになるだけ。

ギブアンドテイクでは友情は成立しません。

価値観・何を優先するかは自由、と割り切る。
だって別々の時間軸・人生を生きているわけで。

「打って響く相手がいたらもうけもん」
ぐらいな気構えで気楽にやっていきましょう。

「一年生になった~ら♪」
あんな歌詞、友だちは少数精鋭でいいわ!
と返してあげましょう。

友だちは量より質です。
友だち幻想は捨てましょうよ。

つらつら書いてしまいましたが、
この一文のどれかでも心に引っかかって
くれたら嬉しいです。

今回もお読みいただきありがとうございました。

 

友人関係のモヤモヤは

最初から相手に期待しすぎることが原因。