ここ続けて、JR両毛線足利駅と東武伊勢崎線足利市駅について書いてきましたが、私の生まれ故郷が実は足利市なのです。

 

足利という町は、室町幕府を開いた足利氏発祥の地(ただし第一代将軍に足利尊氏の出生地は定かではなく、京都、丹波、鎌倉、足利と所説ありますが、足利生まれではないようです。

 

また、足利学校という大学に相当する学校があったことでも知られています。

 

地理院地図より

 

地形的には、西隣の群馬県の桐生と同様に、旧市街は東(東山という)と西が山に囲まれ、北には山地が広がり、南には川と平野で京都とよく似ています。風水思想に則って作られたのか、それとも偶然そうなったのか?

その地形的特徴から、小京都のひとつとされることもあります。

 

旧市街は鑁阿寺足利学校のありあたりを中心とし、商店街は通り1~4丁目の旧国道50号線(現群馬・栃木県道桐生岩船線)沿いにありました。ただ、いまその商店街は衰退し、全国有数のシャッター街となっています。旧市街の空洞化が進んでいます。

 

私の生家()は足利の中ので中心街である雪輪町にあり、私は足利の町っ子でした。

 

足利人の言葉(足利弁)は、栃木県の他の地域と違って西隣の桐生市の言葉に近いいわゆる群馬弁です。ただ、中心街と周辺部(とくに北と東)とは微妙な違いがあり、現自民党幹事長の茂木頼充氏は高校の1年後輩ですが、彼の生まれは中心街から北に離れた月谷(つきや)町で、町っ子の私からすれば彼の言葉にはかなりの”なまり”が見られます。

足利旧市街(地理院地図より)

 

というわけで30年ぶりに足利旧市街を散歩してみます。

 

まず私の実家()を出、寄り道しながら足利家の氏寺である鑁阿寺まで寄り道しながらに向かいます。

実家から路地を抜けて、メインストリートの大通り(旧国道50号)に出ます。旧市街には下の写真ような路地が網目のように走っています。

この路地の南側には三河屋せともの店のトロッコレールが敷かれていた

 

 

K氏邸()のような屋敷がけっこう残っている

 

路地を抜けるとかつての商店街・金融街の通り2丁目・3丁目に出ますが、今やシャッター街で、歩くひともほとんどいません。

 

 

西を見る。かつての商店街は今やこの有様


通り2丁目に出て東を見る。

向かいには、ホットケーキ、あんみつで有名な「丸善パーラー」があった

 

懐かしやお茶の「大十園」だか、しまっている。

隣には空き地には今川焼の「甘太郎」があったのでは?

 

下の写真は、1970年代と思われるの大通り様子(通り2丁目から西を望む)。奥に見える”十”の看板は「さくら屋百貨店」を引き継いだ「十字屋」(のち撤退)

 かつてはこんなにぎやかだったのがウソのよう

 

通り1~3丁目には、富士銀、協和、第一、太陽と3つの都市銀がありましたが、今や旧富士銀のみずほ銀行が残るのみ。それすら撤退、または連絡所に格下げされてもおかしく状況。

旧50号と県道足利西小泉線が交じる一等地(D)に残るみずほ銀行足利支店

 

足利にはかつてニチボウ(現ユニチカ)、東レの工場があり、関西方面からの転勤者もけっこういました。また、繊維産業が盛んな足利と桐生は関西との取引も多く、大阪本社の高島屋が出店し、マルタカとして市民に親しまれていた。高島屋のバラのついた包み紙を持って歩くのはステータスでもありました。とりわけパン売り場は”マルタカのパン”として地方都市に都会の香りを伝えていた(高島屋撤退後もパンだけは場所を変えて「マルタカ・パン店」としてしばらく存続)。

みずほ銀行の対角(D)には高島屋ストアーがあったのだが、いまは更地

 

かつての高島屋ストアの写真、丸に高のマーク、高島屋ストアと何とか読める

 

文化不毛の地と言われたが、いまは街中のマンション地階に美術館がある

かつての繁華街、通り二丁目

通り一丁目

 

いまの足利中心街は、足利学校鑁阿寺という旧跡を訪れる観光客で何とか面目を保っているといってもよいのではないでしょうか?

鑁阿寺への参道・大門通入口(E

大門通には観光客もちらほら、古い家も多い一角

 

石畳の道を歩く人たち(夕刻なので観光客はもう少なかった)

 

蔵を構える家も多い

 

観光客相手に小物を扱う店や飲食店・カフェなども多い

 

しばらく行くと鑁阿寺の南門F)に出る

 

この大門通の東には、史跡・足利学校G)があります。

かつてのその管理はいい加減、きわめてdomesticな存在で、我々子供の遊び場でした。建物に落書きなどもし放題。

中の記念図書館には漫画本も置いてあって、よく読んでいました。また男女別学だった地元高校生のひそかなデートスポットでもありました。

この部分は昔と変わらない

Wikipediaでは、

場所は現在の栃木県足利市(以前の表現では下野国足利荘五箇郷村)である。明治5年(1872年)に廃校になった後は組織としての存続はなく建物が残ったのみで、孔子廟などわずかな建物を残すのみであった。

それが一躍スポットを浴びたのが、1991年にNHKの大河ドラマ「太平記」に足利が取り上げられたことでした。そこで市は慌てて、隣接する市立東小学校(通称:とうこう)をつぶしてかつてあった建物を復元しました

 

よって、足利学校のたてもののほとんどは、わずか30年前に再建されたもので、地元出身者からいえば、”見るべきものはほとんどありません”。

 

ただし、太平記に取り上げられたことは、足利人に「足利という町は観光地として価値がある」ということを認識させた点で重要な意味を持っていたと思います。