北陸本線の大きな目的のひとつは、東京および京阪神をウラジオストクへの連絡船を介してシベリア鉄道通して日本と欧州と結ぶ重要港である敦賀と結びつけるということでした。飛行機がまだ発達していなかった当時はそれが日本と欧州を結ぶ最速の交通手段だったわけです。

 

しかし、三方を山に囲まれた敦賀にレールを通すのは容易ではありませんでした。とりあえずはかなり無理をしたルートが選ばれました。しかしそれは戦後、運行上の隘路となってきました。

 

その北東部は、先の単線の杉津廻りを、S37年の開通当時日本一の長さをを誇った複線の北陸トンネルに切り替え克服しました。

 

一方、南側は、滋賀県の木之本より余呉湖の東を通る断層に沿って北上し、東側から敦賀に入る現在の北陸自動車道とほぼ同じ柳ヶ瀬ルートをとっていましたが、ここも勾配単線のルートで運行上の隘路となっていました。

 

そこで、西に新線を引いて敦賀市街に下るルートに切り替えました。残された旧ルートは柳ヶ瀬線としてしばらく存在し、鉄道廃止後も国鉄バスが通るルートとしてしばらく運行が行われていました。

そしてJR化後に、福井県道・滋賀県道140号敦賀柳ヶ瀬線として一般開放されたということです。
 

 

 

国土地理院2.5万分の1地形図 中川内(平成29年)より

 

旧線跡は北陸自動車道の上下線に挟まれている(A

 

小刀祢トンネル敦賀口(B

小刀祢トンネル柳ケ瀬口(C

小刀祢トンネル説明板

 

その奥の廃線跡

 

柳ケ瀬隧道(D

単線のため信号機がある

 

近くに記念碑等があり

 

レンタカーを返す時間が迫っていたので、今回はここまで。ここ以南と敦賀市街部は次の機会に。