昨日最期を迎え、今日から廃止となった石勝線夕張支線に3月30日(土)に乗ってきました。

 

最期の日(3月31日)は混雑すると考え、前日に妻と二人で出かけました。車で札幌を出、紅葉山(新夕張)の道の駅メロードに車を置き、11時40分発の夕張行き臨時列車9269Dに乗り込みました。予想通りそれほど込み合わず、ゆっくり座ることができました。沿道には、撮り鉄が

 

現状からすれば、廃止やむなしですが、夕張支線がなくなることは本当に残念です。私としては、夕張支線というより夕張線(追分・夕張間)と言った方がしっくりきます。

新夕張駅に入線する堂々3両編成の夕張行き臨時列車9269D、ヘッドマークがまぶしい。

一閉塞区間なのでこのキハ40の3両で8往復行ったり来たり。

 

『さようなら夕張支線』のサボが誇らしげ、だが寂しそう。

 

親子連れが記念撮影

 

三代目の現夕張駅に到着

 

夕張駅では地元の方が黄色いハンカチを振ってお出迎え。

 

グッズもたくさん販売していた(あまり買いたいものはなかった)

 

折り返し新夕張に向かう気動車

 

新夕張駅に到着。千歳行き普通列車と札幌行き特急に接続

夕張支線が遅れたため特急は接続を待ってくれた。

 

旧夕張線は1909(明治25)年の開通以来、夕張地区の出炭量の増加に伴い1912(大正8)年までに全線が複線化されました。しかし、戦況に悪化による鉄材供出によって1932(昭和7)年に単線化されてしまいました。

 

その後、戦後の復興に伴い夕張の各炭鉱は隆盛を見、石炭搬出駅が増えたことおかげで、夕張の各炭鉱の最盛期においても単線でも輸送量は確保されていました。そして1960年(昭和35)年には夕張市の人口は12万人弱と最盛期を迎えました。国のエネルギー転換を政策によって炭鉱は次々に閉山し、現在の夕張市の人口は約8千人です。SLの引く石炭を満載した列車が、狭い谷を行き交った時代を思うと胸が痛くなります。

追分駅にて

鹿ノ谷・清水沢間

夕張線本来の主役は長大な石炭列車だった(2枚ともwebより)

 

今日から廃止とはいえ、石炭の産出が次第に少なくなり、北炭夕張礦が閉山し1985年に夕張駅が移され、1990年の北炭南大夕張礦の閉山により石炭貨物輸送が廃止、2004年には清水沢駅の交換施設も撤去された時点で夕張支線はすでに命運は尽きていたと思います。

 

私自身は1981年に石勝線(南千歳:当時千歳空港・新得間)が開通して、夕張線が石勝線支線と改称された時点で興味は失せてしまっていました。石勝線なんて本来夕張線の支線です。夕張支線だなんて、庇を貸して母屋を取られたようなものです。

新夕張のホームで夕張支線の列車を待つ間、特急スーパーおおぞらが我が物顔で原則もせず通過していきました。

新夕張駅を通過する釧路発スーパーおおぞら4号

 

ネットで見つけた31日の最終列車(webより)

 

廃止当日(2019年4月1日、本日)、無情にも鉄路は国土地理院地図から消されてしまった。

 

これで、鉄路の町でもあった夕張市内から、夕張鉄道、三菱大夕張鉄道、夕張線楓支線、北炭真谷地、おおくの引き込み線、大夕張・南部森林軌道、そして今回旧夕張線(新夕張・夕張間)が消えて残るは1981年に開通した炭鉱とは無縁の高規格路線の石勝線のみとなりました。

しかし、石勝線の追分新夕張間は、夕張線の路盤を転用している ことを忘れないでほしいと思います。