隋の文帝は、政治や社会の制度をあらため、「律令(りつりょう)」といわれる新しい法律をつくりました。
 「律」は、犯罪や刑罰を定め、「令」は、政治や社会の仕組み、ありかたを定めた法律でした。
 また、すぐれた人材を登用するため、学科試験で役人を採用する「科挙(かきょ)」制度を始めました。

 文帝の政治です。(位581~604)
1、均田制(きんでんせい)
 均田制は、北魏の孝文帝が、始めた土地制度です。北魏の諸王朝に受け継げられ、隋、唐にも至ります。
 国家が、農民に農地を与え、徴税しました。
 貴族の大土地所有を抑制し、農民の年齢や性別に応じて、土地の分配を行い、税収の増大を図りました。

2、租庸調制(そようちょうせい)
 均田制に対応した税制度です。
 租は、生産物(粟など)、庸は、布(絹)または労働力、調は、その土地の絹・綿・麻などを、
 税として定め、財政の安定かを図りました。

3、府兵制(ふへいせい)
 成人男子(22才~55才の農民)の中で、強くて健康な者を召集して訓練し、
 衛士(都の防衛にあたる兵士)や防人(辺境の地域の防衛にあたる兵士)として、
 徴兵する兵制です。軍役(ぐんえき)です。

4、科挙(かきょ)
 学科試験による官吏登用法です。
 学科試験は、秀才・進士・明経などの6科に分け、経典・詩文などを試験しました。

 九品中正法をやめました。
 なぜなら、豪族の都合のいい人だけが、中央に行き、そこで門閥を作ってしまい、
 皇帝の権力が減ってしまうから。
 九品中正法をやめ、科挙をはじめたことで、貴族による高級官職の独占を防止し、広く人材を集めて、
 中央集権化を図りました。
 ちなみに、隋の時代は、選挙(推挙されたものを選抜する)と呼ばれ、唐の時代に、科挙と呼ばれました。

科挙といえば、「蒼穹の昴」(浅田次郎)を思い出します。
糞拾い少年の春児(チュンル)は、貧乏で試験(郷試)を受けることができませんでした。
だから、宦官になりました。清国の宦官癸韻卜身出世。西太后に仕えました。(ノД`)・゜・。
泣かせの次郎に、はまりました。(^O^)