隋は、はじめ 「随」と表わしていました。
楊堅は、「随王」でしたが、「シンニョウ」は、「国を滅ぼす」といわれたため、北周に代わって皇帝となったとき、「隋」にあらためたといわれます。
ちなみに、楊堅の諡(おくりな)は、文帝です。

 さて、隋の文帝(楊堅)は、北の突厥に対して、長城を修復して防備を固めます。
 北方で大きな勢力をもっていた遊牧民族が、突厥です。
 トルコ系遊牧民族で、「突厥」という名は、トルコを音訳したものです。現在のトルコではありません。
 アルタイ山麓にいた鉄工の一族が、柔然(モンゴル系)の支配を破って独立。
 552年、伊犁可汗(いりかがん)と称して、蒙古・中央アジアに突厥第1帝国を建設していました。
 可汗とは、君主のことです。

 584年、突厥が北方で暴れると、文帝は、長城を越えて突厥を攻撃します。
 文帝は、突厥内部に政治介入して、東西分裂させました。
 東突厥は、隋に従いました。
 が、モンゴル高原を支配した東突厥は、隋の衰えに乗じて反旗をひるがえします。
 数10万の騎馬軍団を率いて、隋に入り、煬帝を包囲します。モンゴルの騎馬軍団は強い。相撲も。
 煬帝は、詔によって、諸郡の兵を出動させて、東突厥軍を追い返しました。
    後に唐に服属。682年、唐から独立して、突厥第2帝国を築いたが、
    744年、ウイグルに滅ぼされました。
 西突厥は、中央アジアを支配したが、後に、唐に服属しました。

 文帝は、渭水(いすい)を引き、また、淮河(わいが)と長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開き、
 兵と食料を運ぶ道を確保しました。江南対策です。

 また、文帝は、毎年、農繁期になると、軍を南下させる気配をみせて、陳軍に常に長江沿岸に大軍を 
 配置させることを繰り返しました。
 そのことで、人心を動揺させて、収穫を減らさせました。こうして、陳の国力は、急速に衰退し、
 しかも、陳の皇帝が陳叔宝(宣帝の子)で、愚かな皇帝だったため、陳は内部からも崩壊していきました。

 588年、文帝は、陳への遠征軍を出発させます。
 この時の遠征軍の総指揮官が、文帝の次男・楊広(後の煬帝)です。
 589年、陳の都・建康(南京)は、陥落します。
 文帝は、南朝の陳を滅ぼして、南北朝を統一し、
 後漢末期からの400年近い中国の分裂の時代を終わらせました。