まだ、隋の文帝(楊堅)のご先祖様の話です。
 その後、楊氏は、北魏初期に、武川鎮へと移住し、楊忠(楊堅の父)にいたります。
 武川鎮とは、北魏において、首都・平城を、北の柔然から防衛していた6つの軍事駐屯基地の一つです。

 武川鎮出身の有力者は、武川鎮軍閥と呼ばれ、西魏⇒北周⇒隋⇒唐に至る中で、
 各王朝の中核となる権力集団として君臨しました。
 北周の宇文秦(うぶんたい)、隋の楊堅(ようけん)、唐の李淵(りえん)といった各王朝の創始者は、
 武川鎮の有力者一族の出身です。

 楊忠は、北魏が西魏・東魏に分裂するとき、宇文泰(鮮卑の人)に従って、西魏の成立に貢献しました。
 大将軍を務め、隋国公の地位を得ていました。
 568年、楊忠が亡くなると、楊堅が大将軍・隋国公の地位を受け継ぎます。

西魏・東魏は、それぞれ北周・北斉がとって代わりました。
 北魏の文帝のとき、漢化政策が行われました。
 たとえば、名前です。
 皇室の拓跋氏を、元(漢族風の一字姓)氏に変えました。
 北周では、これに反発して、姓名を再び、鮮卑風に改めて、漢人に対しても鮮卑化政策を行いました。

 557年、北周の第4代武帝は、宿敵の北斉を滅ぼしました。
 更に、南朝の陳を滅ぼす前段階として、北の突厥(とっけつ)への遠征を計画していましたが、
 576年に病死しました。

 武帝の後を継いだ長男の第5代宣帝は、5人の皇后をもっていました。
 このうちの一人が、楊堅の長女、麗華です。
 麗華は、側室(生みの母)の子(後の静帝)を育てます。育ての母です。

 宣帝は、在位8ヶ月で、長男、静帝に譲位して、自ら政務を放棄しました。
 政治は無軌道、酒食に溺れ、人望を失いました。
 そこで、静帝の後ろに立つ丞相の楊堅への期待が高まりました。
 580年、宣帝(22才)が亡くなると、楊堅は、摂政となって全権を掌握しました。
 この年、隋国公から隋王へと進み、北周の兵権を与えられたのです。
 581年、楊堅は、静帝(8才)より禅譲を受けて、隋を建国しました。