南北朝時代の仏教は?
インドに生まれた仏教は、1世紀ころ、シルクロードを通じて中国に伝えられました。
その後、仏教は、西域(さいいき)からおとずれた僧侶の活躍で中国に広がりました。
中国の僧が、直接に仏教を知るために、インドに旅行するようになったのは、4世紀以降です。
東晋時代の中国人の僧侶、法顕(ほっけん)です。
法顕(337~422)。姓は、巽。平陽郡武陽縣(山西省)の人。
幼くして出家、20才で具足戒を受けました。
中国仏教界において、律の不完全を嘆いた法顕は、399年、長安からインドへ、
同学の僧4人(慧景・慧応・慧嵬・道整)とともに、戒律の原典を探す旅にでます。
行きは、陸路で、苦難の旅でした。
敦煌から流砂を渡ったときには、
「沙河には悪霊、熱風多く、皆死に絶え一人も生命を全うするものはない。
上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし。見渡す限り渡ろうとせん所を探すも何もなし。
死者の枯骨を道標にするだけ」
とのべています。(『法顕記』)
法顕は、インドに入り、仏跡をめぐり、梵語・梵文を学びます。
413年、帰りは、海路で青洲(現在の山東省)へ帰国しました。
が、無事帰国でき、東晋の都、建康にたどり着いたのは、法顕一人でした。
法顕の記したインド旅行記を、『法顕伝』(別名『仏国記』、『歴遊天竺記伝』)といいます。
法顕が持ち帰った『大般涅槃経』は、仏駄跋陀羅によって、漢訳され、涅槃経成立の基となりました。
法顕が長安を出発したとき、64才。
「長安を発してより六年にして 中インドに至り、停って経ること六年、還るに三年を経て
青洲(青島)に達せり。凡そ遊履するところ減三十国あり」
というから、帰国したのは、78才になります。わぁ。
「ダルマ」です。 (諡号は、達磨大師・円覚大師です。)
南北朝時代、インドから 中国をおとずれた菩提達磨(だるま)は、禅宗を開きました。
達磨は、南インドのバラモン階級に生まれ、般若多羅に学んで、大乗禅を唱え、中国に渡って、
梁の武帝に受け入れられました。
嵩山(すうざん)の少林寺で、9年間も座禅を組んで、弟子が来るのを待ち続けました。
そして、左腕を切って、誠を示した慧可(えか)に禅の奥儀を授けました。
インドに生まれた仏教は、1世紀ころ、シルクロードを通じて中国に伝えられました。
その後、仏教は、西域(さいいき)からおとずれた僧侶の活躍で中国に広がりました。
中国の僧が、直接に仏教を知るために、インドに旅行するようになったのは、4世紀以降です。
東晋時代の中国人の僧侶、法顕(ほっけん)です。
法顕(337~422)。姓は、巽。平陽郡武陽縣(山西省)の人。
幼くして出家、20才で具足戒を受けました。
中国仏教界において、律の不完全を嘆いた法顕は、399年、長安からインドへ、
同学の僧4人(慧景・慧応・慧嵬・道整)とともに、戒律の原典を探す旅にでます。
行きは、陸路で、苦難の旅でした。
敦煌から流砂を渡ったときには、
「沙河には悪霊、熱風多く、皆死に絶え一人も生命を全うするものはない。
上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし。見渡す限り渡ろうとせん所を探すも何もなし。
死者の枯骨を道標にするだけ」
とのべています。(『法顕記』)
法顕は、インドに入り、仏跡をめぐり、梵語・梵文を学びます。
413年、帰りは、海路で青洲(現在の山東省)へ帰国しました。
が、無事帰国でき、東晋の都、建康にたどり着いたのは、法顕一人でした。
法顕の記したインド旅行記を、『法顕伝』(別名『仏国記』、『歴遊天竺記伝』)といいます。
法顕が持ち帰った『大般涅槃経』は、仏駄跋陀羅によって、漢訳され、涅槃経成立の基となりました。
法顕が長安を出発したとき、64才。
「長安を発してより六年にして 中インドに至り、停って経ること六年、還るに三年を経て
青洲(青島)に達せり。凡そ遊履するところ減三十国あり」
というから、帰国したのは、78才になります。わぁ。
「ダルマ」です。 (諡号は、達磨大師・円覚大師です。)
南北朝時代、インドから 中国をおとずれた菩提達磨(だるま)は、禅宗を開きました。
達磨は、南インドのバラモン階級に生まれ、般若多羅に学んで、大乗禅を唱え、中国に渡って、
梁の武帝に受け入れられました。
嵩山(すうざん)の少林寺で、9年間も座禅を組んで、弟子が来るのを待ち続けました。
そして、左腕を切って、誠を示した慧可(えか)に禅の奥儀を授けました。