<王羲之>つづきです。
漢字の字体は、秦や漢の時代に、篆書(てんしょ)から隷書(れいしょ)へと変化し、やがて、
楷書や行書から草書が生まれました。
王羲之は、こうした書体を芸術に発展させました。<書聖>とよばれます。
王羲之の作品で有名なのは、『蘭亭序』です。
『蘭亭序』は、行書で書かれ、原本は伝わっていないが、種々の模本があり、
行書を学ぶ人は、必ず手本にしました。
『蘭亭序』は、東晋時代、353年(永和9年)3月3日に、王羲之が、名士41人を別荘に招いて、 蘭亭に会して、曲水の宴が開かれました。
その時に作られた詩集の序文です。
中国古代から(周公の時代とも、秦の昭襄王の時代とも。)
上巳(じょうし)に水辺で禊(みそぎ)を行う風習がありました。
それが、3月3日に、禊とともに、盃を水に流して宴を行うようになりました。
王羲之の詩宴は、万葉人にもよく知られていて、
『万葉集』に、天平勝宝2年(750)3月3日に、曲水の宴を詠んだ大伴家持の歌があります。
♪漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶてふ
今日そ我が背子(せこ) 花縵(はなかづら)せな (巻19・4153)
(唐の国の人も 舟を浮かべて 遊ぶという今日この日なのです、さあ皆さん、花かずらをかざして
楽しく遊ぼうではありませんか。)
大伴旅人の「梅花の宴」の序文は、王羲之の「蘭亭序」を模し、その中の語句も引用されています。
『蘭亭序』の「是ノ日ヤ、天朗ラカニ気清ク、恵風和暢ナリ」
→『梅花の宴』では、「気淑(きよ)く風和(やはら)ぐ。」
『蘭亭序』の「言ヲ一室ノ内ニ悟ル」
→『梅花の宴』では、「言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、」
『蘭亭序』の「快然ニ自ラ足リヌ」
→そのまま、『梅花の宴』でも、「快然(くわいぜん)に自(みづか)ら足りぬ。」です。
王羲之は、『蘭亭序』に、風雅の趣をのべ、
「後に覧る者もまた、この文に感ずるところあらむ」 と結びます。
つまり、わが心理の理解者を、後世に求めています。
旅人も、「後之覧者」たらむとしました。(^O^)
漢字の字体は、秦や漢の時代に、篆書(てんしょ)から隷書(れいしょ)へと変化し、やがて、
楷書や行書から草書が生まれました。
王羲之は、こうした書体を芸術に発展させました。<書聖>とよばれます。
王羲之の作品で有名なのは、『蘭亭序』です。
『蘭亭序』は、行書で書かれ、原本は伝わっていないが、種々の模本があり、
行書を学ぶ人は、必ず手本にしました。
『蘭亭序』は、東晋時代、353年(永和9年)3月3日に、王羲之が、名士41人を別荘に招いて、 蘭亭に会して、曲水の宴が開かれました。
その時に作られた詩集の序文です。
中国古代から(周公の時代とも、秦の昭襄王の時代とも。)
上巳(じょうし)に水辺で禊(みそぎ)を行う風習がありました。
それが、3月3日に、禊とともに、盃を水に流して宴を行うようになりました。
王羲之の詩宴は、万葉人にもよく知られていて、
『万葉集』に、天平勝宝2年(750)3月3日に、曲水の宴を詠んだ大伴家持の歌があります。
♪漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶてふ
今日そ我が背子(せこ) 花縵(はなかづら)せな (巻19・4153)
(唐の国の人も 舟を浮かべて 遊ぶという今日この日なのです、さあ皆さん、花かずらをかざして
楽しく遊ぼうではありませんか。)
大伴旅人の「梅花の宴」の序文は、王羲之の「蘭亭序」を模し、その中の語句も引用されています。
『蘭亭序』の「是ノ日ヤ、天朗ラカニ気清ク、恵風和暢ナリ」
→『梅花の宴』では、「気淑(きよ)く風和(やはら)ぐ。」
『蘭亭序』の「言ヲ一室ノ内ニ悟ル」
→『梅花の宴』では、「言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、」
『蘭亭序』の「快然ニ自ラ足リヌ」
→そのまま、『梅花の宴』でも、「快然(くわいぜん)に自(みづか)ら足りぬ。」です。
王羲之は、『蘭亭序』に、風雅の趣をのべ、
「後に覧る者もまた、この文に感ずるところあらむ」 と結びます。
つまり、わが心理の理解者を、後世に求めています。
旅人も、「後之覧者」たらむとしました。(^O^)