『文選』(もんぜん)です。
 南北朝時代の南朝の梁の昭明太子が編纂しました。530年頃に成立。
 周から梁に至る1000年間の文章・詩・賦など、あらゆる傾向の作品を細かく分けて撰した書。30巻。
 梁の武帝の長子、蕭統(しょうとう、昭明太子は諡)が、幕下の文人のもとに撰。
 隋唐以前の文学作品を、網羅しています。
 戦国時代の屈原の「離騒」も、東晋時代の阮籍の「詠懐詩」も。東晋時代の陶淵明の「帰去来辞」も。
 
 隋唐以降、官吏登用に科挙が導入されると、『文選』は知識人の必読の書となりました。
 『文選』の中の言葉は、故事教訓として、現在でも使われています。

 たとえば、 <圧巻>です。
  古代中国で行われた官吏登用試験の科挙で、最も成績の良かった者の答案(巻)を、圧するように
  常に一番上に置いたことから、書物の中で一番秀でた詩文を<圧巻>と呼ぶようになり、
  書物以外にも用いられるようになりました。

 『文選』は、わが国でも、平安時代に流行しました。
 「書は、文集、文選」(『枕草子』)とあるように、貴族の教養書物でした。

絵画の<顧愷之>(こがいし)です。
 4世紀後半、江南の建康(南京)を都とした漢人王朝の東晋に仕えた、画家です。
 『女子箴図』(じょしいんず)です。
 六朝時代の宮廷女性のたしなみを、描きました。
 大英博物館にあります。模写しか伝わってなく、真筆は残っていません。

書道の<王羲之>(おうぎし)です。
 東晋時代の政治家・書家です。
 書は、おおいに評価され、科挙の試験に、答えはあっていても、書体が王羲之と違うと、
 不合格になったほどです。
 また、唐の太宗は、王羲之の書を愛し、自らの陵墓(昭陵)に副葬させました。
 その後、戦乱を経て、王羲之の真筆はすべてなくなりました。

 王羲之は、山東省の名門貴族の家に生まれ、やがて宮廷に仕え、さらに地方知事になって
 会稽(現在の浙江省紹興市付近)に赴任したが、48才のとき、世間のわずらわしさに嫌気がさし、
 仕事をやめてしまいました。
 そして、道教の聖地だった会稽山の麓にひきこもり、ゆったりとした生活を楽しむようになりました。