★九州の前方後円墳
人吉盆地(球磨)には、約40ヶ所の免田式土器を出す遺跡がある。
免田式土器(熊本県球磨郡免田町)は、弥生後期。
壺の胴部を重弧文で飾って、地域色を強くあらわしている。
人吉盆地の遺跡からは、武器としての鉄鏃の出土が目につく。
鉄鏃は、矢の先に着ける武器で、弓を使って射る。

人吉盆地には、前方後円墳はない。
それは、北部九州や近畿の政治勢力が採用した墓制を拒否したのだから、当然。
曽君細麻呂は、ヤマトの律令政府から、位を授けられたが、球磨の豪族には、そのような史料はない。
曽と球磨は、しだいに分裂していったらしい。

九州島の太平洋沿岸には、前方後円墳が多い。
宮崎県西都市の西都原古墳群。
鹿児島県肝属郡(きもつき)東串良町(ひがしくしら)の唐仁古墳群(とうじん)の
唐仁大塚古墳。(137m)
大崎町の横瀬古墳(よこせ)(135m)
中型の前方後円墳だが、5世紀の東アジア全体でみれば、傑出した規模。
 新羅最大の双円墳(王陵)でも、110mだった。
 中国南朝の皇帝陵は、さらに小さい。

北部九州の最大前方後円墳は、福岡県八女市にある岩戸山古墳。132m。
527年に、継体天皇と戦争した磐井の墓。
北部九州と、志布志湾沿岸地方に、同じ時代・同じ規模の古墳がある。

前方後円墳の違いから、熊襲の襲のほうは、5世紀ごろからヤマト勢力と関係をもち、
曾君のように、律令体制下に組み入れられ出した。
または、北部九州の磐井勢力と同盟関係だったか。。。

文武 4年(700)、薩未比売(さつまひめ)、久売(くめ)、波豆(はづ)、衣評督衣君県(えのこおりのかみころものきみあがた)、肝衝難波(きもつきなにわ)らが騒乱をおこしたとき、
肥人(くまびと)らを従え兵器をもって、
国覓使(くにまぎし)の刑部真木らを剽劫(ひょうきょう、拉致)した。
→肝衝の豪族らが、肥人を従えていた。
 肥人は、クマビト、球磨地方出身の傭兵的集団。