自分では気づいていなかったこと

 

 

 

マリコ先生のこのブログを読んだとき

 

衝撃だった、、、

 

 

だって、自分じゃ1ミリも

 

気づいていなかったことだったから

 

 

 

 花花花

 

 

 

 

 

「お好きなお菓子どうぞ」

 

職場や、友達や親戚の集まりなどで、

 

時々出くわしてきたシチュエーション

 

 

 

‟先に選んでいい”という考えが、

わたしの中に全くなかったこと

 

‟遠慮しないといけない”という考えが

わたしの中にはあったこと

 

 

みんなが選び終わるころ

 

「じゃあ、わたしはこれを頂きます」

 

って、にっこりもらってた。

 

まだ残りがある味の物や、

3番、4番人気くらいのマイナーな味の物を

 

遠慮しないでって、言われたりするから

 

あたかも

 

 ‟この味がわたしは良かったんです” 風に、

 

にっこり選んでもらっていた。

 

 

 

『遠慮をすること』が、

 

わたしの中のデフォルトで標準装備だから、

 

このことに何の疑問も持っていなかったんです。

 

 

 

母親理解がだいぶ進んで来ていて、

ダイヤモンドに成りつつあったそんなころに

 

 

この、マリコ先生のブログを読んで衝撃を受けた

 

 

『これ、わたしやってる、、、』

 

 

知らず知らずのうちに遠慮してた。

 

いつもいつも遠慮してた。

 

 

イチゴ味が食べたかったら、

イチゴ味が食べたいって

 

言っていいの?!

 

 

わたしが取ったら、

イチゴの残りがなくなるのに

 

図々しく言っていいの?!

 

 

みんなもイチゴ好きな味だろうに

 

これがいいって、主張していいの?!


 

 

『わたしこれがいいです!!』



 

誰よりも先に言うなんて思ったこともなかったから

 

衝撃を受けた。

 

 

 

 

なんで『わたしは遠慮しなくてはいけない』と

 

今まで思って生きてきたのか、、、

 

そして、お菓子だけじゃなくて、

 

自分の人生に対しても、


遠慮して生きて来た事に気が付いた

 

 

 

Q・なぜ、わたしは遠慮して生きているのか?

 

 

A・それは、わたしの母親が遠慮して生きているから。

 

 

 

こんなところにも母親の影響が出ているなんて

 

母親問題って、、、なんて厄介なんだろうと思った

 

 

 

わたしの母は義理の両親と同居する嫁という立場

 

母は常に遠慮して、生きて暮らしていた。

 

 

そんな母の姿を見ながら育った、

 

わたしは『人生は遠慮して生きるものという』

 

謎の価値観を受け取ってしまい、

 

人生を楽しむことが


出来なくなってしまっていたのでした。

 

 



 

人生は遠慮して生きるものという価値観と

さようならをして、

 

自分は何がいいのか、

何を希望しているのか、

何味が食べたいのか、


自分の要望を丁寧に聞いてあげるようにしてから


自分の人生を自分で楽しくしている


手ごたえを感じるようになりました。

 

 

 

わたしの中で遠慮しないという言葉は


大切な要素を含む言葉になりました。

 

 


 花花花


 


講座中に、このことをマリコ先生にお話ししたいと思っていて、何度目かの二次会でマリコ先生にお話し出来たときは嬉しかったです!


 

最後までお読みいただきありがとうございます

 



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