お守り代わりに持って行った解熱剤も、結局使わず一日が終わった。あれだけ体調を崩したのに、一日で治してしまう自分に、むしろ自信が出てきてしまうくらいだ。

 


それでも、彼の言いつけを守り、仕事が終わったらまっすぐ家に帰った。帰ったとしても、やることと言えば次の取材で使う資料を読むのと、先日のライブ以降の変更点をビデオで確認したいのと、自分で調べ物をするくらいで、時間を持て余しているのだが。

 

そんな細々とした仕事も、とっくに終わって、いよいよすることがなくなる。それなら、と、部屋を簡単に掃除して、気に入った香りのキャンドルを焚いたりしてみる。彼が来るのを期待して、準備している自分が、あまりに浅はかに思えて気恥ずかしくなったりもした。


そんなときに、部屋のチャイムが鳴った。

 

 




「ごめんね、自分から行くって言っておきながら、こんなに遅くなっちゃって」

そう言って入ってきた彼は、大きなビニール袋を抱えていた。


「もうご飯食べちゃった?」

 


そう聞く彼の言葉の意味が、初めは掴めなかった。きょとんとしている俺を見かねたのか、彼は満面の笑みでこう言った。

「キッチン借りていい?オムライス作るから。」

 

 

 

彼の手際の良さは、見惚れるくらいだった。目にも止まらぬ早さでタマネギとニンジンを切り終わると、すぐにフライパンで材料を炒め始める。バターのいい香りがしてくる。かと思えば、電子レンジが鳴って、温められたご飯が出てきて、それをフライパンに入れて、じゅう、と大きな音がした。

いつの間に、冷凍ご飯なんてわざわざ持ってきて。俺はただただ呆然と眺めているだけだった。


そうしている内に、チキンライスが出来上がっていて、彼は「卵はちょっと苦手なんだよなぁ」などとつぶやきながら、何度かシミュレーションするようなそぶりをした後、溶いた卵を一気にフライパンに流し込み、ちょっとガチャガチャさせながら、あっという間にオムレツを作り上げた。

「うん、ここを上手く隠せば大丈夫。」

そんな台詞を言いながら、満足げに頷いて、それから両手で俺に皿を差し出して、こう言った。


「でけた」

 




 

 

出来上がったオムライスは、俺から言わせればお店のものくらいの見た目で、味も店のものに負けないくらい美味しかった。そういえば今日一日ほとんど何も食べていなかったと思い出し、口に入れたオムライスが、身体に染み渡っていくようで、心が落ち着いていくのを実感した。

 

「やっぱり、食べるって大事だな。」

それは、心の底からの感想だった。

「本当に、美味いよ。料理、本当に上手くなったよな。」

そう褒めると、彼は片付けをしながら、ちょっとはにかむようにした。

 


食べ終わって、片付けくらいはやらせろ、と皿を彼の手から奪い取って、洗い物をするついでにと、彼にコーヒーを入れてあげた。

「ありがと」

そう言って、覚えのあるマグカップを彼が受け取って、手のひらで包んで嬉しそうな顔をした。そんな彼の表情一つにも、愛しさを覚えた。

 

隣に座り、俺もコーヒーをすすりながら、こうして自分の部屋に彼がいるという事実に戸惑いつつ、それでも、うれしさが勝って、時間がこのまま止まってしまえばいいのに、と願った。

 


「・・・なんかゴメンね、お見舞いにきたくせに、俺のほうがゆっくりしちゃって」

「ううん。もう、おかげで充分元気にさせてもらったから。そういえば、なんでオムライス?」

「翔くん、オムライス好きでしょ。病み上がりにはちょっと重いかな、とも思ったけど。」

 

 

こうして隣に座って話しているのを見て、誰も、俺と彼の間に関係があったことなんて想像しないだろう。

そう考えることはどこか優越感を覚えつつ、それ以上に、今の、この押すことも引くことも許されない微妙な距離を、ただただもどかしく、悔しく思った。

 

 

そんな、考え事をする俺のことを見かねたのか、彼が急に立ち上がった。


「病み上がりなんだから、無理しないでね。今朝電話かけたときは、かなり心配だったけど、とりあえず元気そうで良かった。」


そうして、鞄を手に取ると、せかせかと帰る方向へ動き出す。

「ゆっくり休んで。押しかけてゴメンね!」

 

そう言って、帰ろうとする彼を見て、思わず、その手を取った。

「ちょっと、待ってよ」


彼は、そのまま、俺の方を見ない。

 

「・・・なに?電話のことなら、気にしてないから大丈夫だよ」


彼は素っ気なく早口でそう言って、その手を振りほどこうとした。俺は離さないようにもっと強くつかんで、こう告げた。

 

「・・・俺は、白状すると、お前にちょっとは気にして欲しいんだけど。」




こんなに恥ずかしい告白はない。もうとっくに熱は下がっているのだから、熱のせいで心細くて甘えたくなっている、なんて言い訳は出来ないのだから。

それなのに、普段なら絶対に言うことのないわがままな台詞だって、彼の前なら言えてしまうのも不思議だ。

 


彼は、そのままの姿勢のまま、少し迷うように間を置いて、しかし結局、反対の手で剥がすように俺の手を解いて、そして、振り返って笑って言った。


「翔くん、疲れてるんだよ。だから、今日はしっかり休んで。」

そう言って、彼は小走りで扉に向かい、部屋の扉を開けて「じゃあね」とせわしなく出て行った。

 

笑っているくせに、その目の奥は揺れ動いていて、おそらく、俺に焦点が合っていなかった。

 

 

 

俺は、ただその様子を呆然と眺めているだけだった。

 

 

 

 

 

(なかなか、簡単には思い通りになりませんね・・・!)