以前私は「子育て支援」という過去記事で、
環境や動物問題のことを綴ったことがある。
動物の生きる権利、人間の生きる権利、
共に生きていくにはどうしたらいいのだろう?
人間の欲をコントロールせず、動物の命をコントロールすることが
本当に生きていく為に必要不可欠なことなのか・・・
事を通して考えなければ
いずれ私たちの元に解決出来ない事の問題が倍になって返って来る。
自分たちの行いが返って来ているだけなのに、
「異常気象だ!異常気象だ!!」などと文句ばかり言ってはいられない・・・;
(電気、ガス、水、もっと大切にしなくちゃね・・・反省☆)
101匹わんちゃんの悪役「クルエラ・ド・ヴィル」。
彼女を見て、美しいと思うか醜いと思うか、
自分の魂の声を感じよう。。
(私は動物性は持たないけれど、私にとってクルエラは、愛すべき同じ人間だと感じる。
けれど「あなたクルエラにソックリね」と言われたら不快ですか?
ちなみに数年前の私は多くの人々同様、クルエラでした。)
内面から溢れる美しさを求める人々の世界に
どうして動物の死骸を身にまとっている矛盾に気がつく者が少ないのか・・・
その多くは生きたまま皮を剥がされていることを知らないから
点と点が繋がらないのか?知っていたら繋がるのか?
私たちは毛皮が無くては生きてはいけないイヌイット人なのか?
羊毛も昔のようにデザインに飽きたら紡ぎ直せば
羊の寿命も延び、犠牲になる羊も少なくて済むのではないか?
自分の家にいる犬や猫、兎だけが幸せであればいいのか?
愛とはなんなのか?
それでも私は天使で私の中に悪は無いと言い切れるのか?
それともそんなときだけ完璧で完全な人間はいないからと開き直るのか?
けれども動物の権利ばかりに気を取られ、
流れてきた情報一つを鵜呑みにして、一方的に相手を責めてはいないか?
(肉食者が菜食主義者を「常識」を理由に
一方的に偏見な目で責めている場合も多々あるけど・・・;)
相反するものたちに残虐極まりない行為をしてはいないか?
相手と同じ土俵に立って人間同士で罵倒し合ってはいないか?
その罵倒の中に、
しっかりと動物の声は反映されているのだろうか?
その罵りあう会議の蚊帳の外に
動物たちは置き去りにされてはいないのか?
動物はどこにいるのだろう・・・
本当の動物の声はどこにあるのだろう・・・
本当の私たちの(魂の)声は
どこにあるのだろう・・・
感じよう、、考えよう、、話し合おう。。
事を通してとことん自分と向かいあって
自分の声を感じよう。。自分の声と話し合おう。。
そして選択していこう
角度によって様々な考え、価値観がある・・・
一筋縄ではいかない難しい問題。
だからそこ、先ずは自分から自分のエゴと向かい合う愛たろ
(今から自然食の勉強をしに、名張まで行って来ま~す)
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