小学生の時(6年時)に、教室を抜け出し、じっとしていられず、また教師の言うことにも素直に従えない生徒がいました。


大人のやることや、社会の矛盾を信用できないその生徒は当然に授業もまともに出ていないので成績は最低。


通知表では「大変よい」や「よい」などは一つもありませんでした。


学校にも家庭にも、安心できる場所を見出せなかった彼は友達の紹介から近所にある学習塾に通うことになりました。


その塾の講師が様々な人生経験の持ち主で、授業が終わってから、たくさん話をしたい彼の話をただただ聴いてくれました。


授業の時間は50分ほどですが、彼は何時間も塾にいてなかなか帰らず、心配した母親から電話がかかってきたりしたものです。


もちろん時には反論したり、言葉を言い換えたり、議論をしたりもしましたが、彼の話の内容に耳を傾け、それに肯定的評価を与えながら、ただ聴き続けたわけです。


学校の勉強や評価などにも批判的だった彼が、少しづつ勉強し始めたのはその塾に入ってから。


それから中学に上がりましたが、そのまま塾を続けると同時に、塾の講師との会話も続けられました。


よく話を聞いてみると、とても哲学的な会話で、そもそものこの社会の在り方や人間や自然の存在意義のようなものにまで話題が及び、彼が中学1年生にしてすでにかなり高度な抽象的思考のできる人間であることがわかったのです。


抽象的思考は人間の精神の進化の度合いを示すものです。


その優れた思考が、日常の学校生活や家庭生活では十分に満たされず、その表現の場所を探していたのでしょう。


言葉にして他者に理解してもらえただけで、彼の思考は現実への架け橋を手に入れました。


現実の生活がそれからみるみる変わっていき、中学では教室できちんと授業を受け、学校の成績が急激に向上したのです。


このように自分の内的世界と、現実の世界との矛盾や齟齬を抱える生徒は多いものですが、たいていはその話は受け入れられず、いわゆる大人の世界の常識に屈服していきます。


もちろん社会の常識や一般的な考え方を学ぶことはとても大切なことで、これを否定する教育家を私は信用しませんが、ただその世界の論理で子供たちの内的世界を塗りつぶすことが正しいわけでもありません。


この二つの世界に橋渡しをする必要があるのです。


その方法は、ただ「聴くだけ」。


話しているうちに自分の言っていることの矛盾や、自分の普段の行いの矛盾に気がつくことも多いので、自分で話していて、自分で勝手に修正されていくのです。


時々は思いっきり議論したり反論したりしてもいいのです。


その根本には、その子の言っていることを確かに受け止めた、理解した、という土台があるからです。


聴くだけの教育法なんて簡単だと思う人は多いでしょうが、これが一番難しいことに気がついている人は多くはないはずです。


多くの子供たちの問題行動の背後に、親や大人の問題行動(話を正しく聴けないということ)があるのだと私は思います。


そして社会全体に時間がないという時間貧乏がはびこっていることが大きな社会の病理でもあるのです。


少なくとも家庭では「裕福な時間」というものを、子供たちのために創造して欲しいと願っています。