第715話「山さんからの伝言」(通算第409回目)

放映日:1986/10/24

 

 

ストーリー

島津が警視庁4万人の中から、本年度(1986年度)の6ヶ月の海外研修制度の一員に選抜されていた。

島津は来週の金曜日に出発することとなっており、今週いっぱいで本庁勤務となった。

島津は研修を終了しても、七曲署に戻ってくるとは限らなかったが、捜査員に祝福された。

一係室に、殉職した山村宛に速達郵便が届いた。

速達の送り主は飯田隆三(稲葉義男さん)という人物だったが、捜査員は飯田の名前を知らず、山村から聞いたことも無かった。

飯田は一昨日の晩、山村に遺言状を残して亡くなっていた。

橘は島津と水木に、捜査の合間を縫い、山村の代理として飯田の葬式に出席するように命じた。

飯田は私設の孤児院を経営し、捨て子や交通遺児、両親の失踪した子供を保護していた。

ホームズ三世に飯田の記録が無く、飯田には前科が無いことが確定していた。

島津と水木は飯田の葬式に出席した。

飯田の葬式会場前には警察の自動車「品川88 す 72-43」が駐車されており、葬式には衆議院議員の白井章吾や都議会議員の山口万作から花輪が贈られていた。

島津と水木は葬式の片付けを手伝っている吉野刑事(横谷雄二さん)と会い、本庁の警視監(神山繁さん)が葬式に出席していることを聞かされた。

警視監の殉職した部下が飯田の孤児院の出身だった。

葬式の出席者の木場一也(26歳)(鷲生功さん)は飯田の位牌に、ヤクザから更生できなかったことを詫びた。

島津と水木は警視監と対面し、山村の代理として訪れたことを伝えた。

島津と水木は飯田夫人の飯田節子(本山可久子さん)と、弁護士の相原真二と会った。

相原は遺言が正式なものではないこと、山村が亡くなったことを理由に、島津に飯田の遺言を開示することを渋った。

節子は飯田の唯一の遺言を尊重することを理由に、遺言を開示することを許可した。

相原は節子とは親子関係ではなく、一時期に飯田の孤児院に在籍していた。

節子は警視監に、9年前(1977年頃)にある事故が発生した際、山村と2,3度会ったことを話した。

飯田の遺言状には、昭和52年(1977年)5月15日に田端謙二(当時54歳)(宮部昭夫さん)を殺害したのが自分であると書かれていた。

1977年5月15日午後8時15分、東京都新宿区矢追町4-6-11の飯田宅にて、田端が階段から転落し、頭蓋骨骨折で死亡する事件が発生していた。

事件の担当者は山村であり、本庁の資料では事故死として処理されていた。

飯田は胃癌で、意識障害が無かった。

井川は飯田が死に臨んでの告白状と解釈し、事実と断定していた。

令子は事件の担当が山村であることが信じられなかった。

西條は山村にミスが有り得ない、あってはいけないと考えていた。

橘は警視監に呼ばれていた。

橘は山村の捜査記録の「本件は犯罪を構成せず」という文を杜撰と評した。

警視監は生前の飯田と2.3度会っており、信念を持った立派な人格者という感想を抱いていた。

警視監は飯田が殺人を告白したため、事件を殺人事件と断定し、山村のミスは警視庁のミスであり放置できないと考え、橘に真相究明を命令した。

事件は被疑者死亡という特別な形をとっていたが、橘は告発すべきものはしなければならないという考えだった。

島津は出発前の休暇を返上し、七曲署最後の事件として、自分にこの事件を担当させるように申請した。

橘は島津の協力者として水木を指名した。

吉野は飯田が殺人をするはずがないと思っていたが、節子も飯田が自分の意思で遺言を書いたことを認めた。

吉野は孤児たちの非行問題で飯田と会っていたが、飯田の孤児院からは非行を行った少年が皆無だった。

島津は資料室の書架から飯田の孤児院変死事件のファイルを取り出し、閲覧した。

墜落死した田端は新宿区矢追町2丁目で金融業を経営していた。

現場は飯田が孤児達の宿舎として利用していた飯田寮であり、田端は2階踊り場から3.5m下の地上に転落していた。

飯田の死因は脳挫傷だった。

西條は島津にラーメンを差し入れた。

島津は山村が結論を出す前に、不自然に手を引いていること、山村の捜査に綿密さが欠けていることを不審に思った。

島津は捜査に何らかの圧力がかかったか、山村が捜査に私情を挟んだかの2つを推測した。

西條は山村にそのようなことが考えられないと思っていた。

橘は病床の藤堂から、山村が事故死という結論を下したこと、山村の判断を信じたことを聞き出した。

水木は2年前(1984年頃)に、飯田から飯田寮を買い取った菊池(河合絃司さん)という老人から話を聞いていた。

飯田寮は取り壊され、跡地にグリーンプラザマンションに建てられる予定となっていたが、建設反対の貼り紙が多数貼られていた。

飯田は鉄工所「飯田工業」を30年間も経営していたが、高齢になるにつれて仕事が著しく減少しており、長年の借金を返済するには飯田寮を売却するしかないところまで追い詰められていた。

飯田の育てた孤児は50人いた。

島津は不動産屋(相馬剛三さん)から情報を入手していた。

飯田寮は土地が良くて広大だったため、不動産屋に狙われていたが、最初に手を出したのが金融業の田端だった。

田端は阿漕なことでは屈指の男で、飯田寮の借金に注目していた。

飯田は人望が厚く、知人や慈善家から大金を、無期限無利息の形で借りていた。

田端は相手の弱点を握り、暴力で脅迫し、強引にその形式だけの借用書を1つ1つ入手し、田端を責め立て、乗っ取る寸前までいっていた。

節子は田端に立ち退きを迫られたことを認め、好意を持っている人物に甘え、ルーズな借用書を複数枚作ってしまったことに責任を感じていたが、田端の追立が鬼であるという感想を抱いていた。

節子は田端が、どんなことがあっても殺人が考えられる人物ではなく、過失で死なせてしまったと思っていた。

島津は節子に、9年前になぜ自首しなかったのかと尋ねたが、節子にも分からなかった。

衆議院議員の白井章吾は名門白井ファミリーの御曹司であり、飯田寮の最大の後援者となっていた。

島津は節子に、白井が飯田寮の後援者となっている理由を聞いたが、節子にも分からなかった。

澤村は山村の落ち度を告発するような捜査に反発したが、橘に山村が自分の結論に常に責任を持つ人物であるため、徹底的に究明することこそ山村に対する礼儀ではないかと諫められた。

島津は衆議院議員会館を訪れたが、白井は現在、北海道を?中で、明後日に帰ることとなっていた。

事件の裏に白井が関与しているとなると、最悪の場合、免職になる可能性が出てきた。

西條は、政治家の白井に関与している可能性がある飯田に疑惑を持っていた。

島津は白井宅を訪問し、白井の夫人の白井良子と対面した。

良子は白井の代理で飯田の葬式に出席したため、飯田のことを知っていた。

良子は島津に、父親が城南大学の本間教授であることを伝えた。

島津に良子の表情に疑惑を抱いた。

良子は木場に、島津が自分のもとを訪ね、本間のことを聞いていたことを報告した。

島津は城南大学を訪れ、良子の同級生の宮島から話を聞いた。

良子は本間の養子で、旧姓を和田といった。

良子も飯田寮の出身であることが判明した。

良子は白井議員の秘書をしていた際、白井を愛したが、両親や親戚に猛反対された。

結局、本間が身元保証人の意味で、養女として入籍していた。

島津は白井が良子の身元を隠すため、捜査に圧力をかけ、山村がそれに降参したことを確認するため、個人ファイルを必要としていた。

山村は自宅の書斎に、自分のノートを何十冊も書き留めていた。

島津は当時の記録を何としても閲覧しようとしていた。

井川は島津に木場の前科者カードを見せた。

木場は傷害の前科があり、飯田に育てられた孤児の1人だった。

木場は戸川組に出入りしていた際、赤石という偽名を使っており、西條と澤村にも知られていた。

飯田が育てた孤児の中には数名ぐれていた者がいるが、その中でも木場は9年前事件のあった前後に高校を中退し、飯田のもとを飛び出していた。

澤村と太宰は、自分の姿を見て逃走した戸川組のチンピラを追跡し、殴り倒して逮捕した。

チンピラは木場に、警察に何も喋らないように口止めしていた。

澤村と太宰は七曲署にチンピラを連行し、チンピラから木場が9年前に殺人を犯したと漏らしていたという証言を入手した。

木場は短刀を持ち、自分から七曲署に出頭しており、井川と島津に取り調べられていた。

木場は飯田に罪を被せたくないために出頭したこと、田端があまりにも悪辣な手口で孤児を追い出そうとしたために田端を殺害したことを供述した。

井川は、田端が木場の気持ちを理解したからこそ、最後に木場の代わりに自首をしたのではないかと推測していた。

木場はあくまで飯田の無実を主張した。

島津と水木はトランクルームを訪れ、山村の書籍とノートと書類が保管されている段ボール箱から、山村の個人ファイルを取り出し、閲覧した。

島津は個人ファイルの1977年4月26日と5月28日の間にあたる、飯田寮事件のページが破り捨てられていることに気付いた。

島津は他に白紙を残した部分が無いため、山村がページを破り取り、白紙を残したのではないかと考察した。

西條は木場の供述に疑問を持ち、良子に偽証を依頼されたものではないかと考えた。

木場は事件当時、飯田寮には1人しかいなかったと供述したが、捜査記録には飯田と寮に寄宿していた15人の孤児が飯田寮にいたと記載されていた。

木場は午後8時には他の孤児たちが寝ていたと慌てて誤魔化した。

島津と水木は七曲署に帰還した際、太宰から、久保哲夫(23歳)という男が自首してきたことを知らされた。

久保は会計事務所に勤務し、矢追3丁目の曙荘に住んでおり、独身だった。

久保は高校卒業まで飯田に養育してもらっており、専門学校に進み、会計士を目指すつもりだった。

久保は飯田に相当な恩義を感じており、あくまで自分の罪を精算しに来たと主張し、計算高い性格であるため、損なことをしないと述べた。

久保は田端を階段から突き落としたのが自分であると話し、当時の状況を説明した。

当時、飯田寮の孤児達は追い立てに来る田端の怒鳴り声と、飯田が田端に、孤児達の落ち着き先が決まるまで待ってほしいと懇願する声も毎日聞いていた。

孤児達は田端が飯田寮を乗っ取ろうとしていることを知っており、鬼であると感じていた。

田端は飯田に、今夜中までに立ち退きを強要し、孤児達にも暴力を振おうとしていた。

孤児達は田端の殺意を感じ、集団で田端を追い出しそうとしたが、田端がその際に階段から転落し、頭を強打して死亡していた。

久保はあくまで突き落としたのが自分であると主張した。

久保は山村や飯田に真相を話していた。

飯田寮出身の村上勇(事件当時9歳)が自首し、井川と太宰に取り調べられた。

村上は田端の背中を突き落としたときの嫌な感触を今でも夢に見ることを話した。

村上は飯田の遺言を聞き、自分を最後まで心配して身代りになってくれたと思い、複雑な感情になっていた。

島津は吉野のもとを訪れた。

吉野は飯田寮と何も関係がないこと、飯田や出身の孤児達に特別な恩義が無いことを認めた。

吉野は人間が信じ合って生きることが良いことと何度も思っていた。

島津は信じ合い、庇い合い、いたわり合うことが心和らぐ光景だが、それには太く大きな柱が必要であること、両親や家族がいない孤児達の柱が飯田と飯田寮だったが、その柱が倒れたら文字通り路頭に迷うことという持論を述べた。

捜査員は事件が事故死であるという結論に至っていた。

結論の理由は自首した3人の供述から、田端が転落した状況が一種のパニック状態であることからだった。

自首した3人は3人とも、自分が突き落としたと確信したが、そこには15人の子供たちと駆けつけた飯田が縺れ合っていた。

孤児達は恐怖と怒りで逆上し、田端を追い出そうと手を突き出しており、誰の手が原因なのかは不明であり、縺れ合いで田端が足を踏み外した可能性も濃厚だった。

3人が自分のことを犯人と確信しているのは、自分が犯人であると、飯田や他の孤児を救うことができるためだった。

西條は橘に、パニック状態で、どの孤児にも殺意が無く、飯田と飯田寮を救いたいという善意の状況の中で、事故死と断定した山村の判断に無理がないと意見した。

井川は山村がそのような結論に達したら、なぜそれを堂々と書かなかったことを疑問に思っていた。

島津は山村から、「刑事は人を傷つけることを恐れてはならない。ただし、人を傷つければ、より以上に自分が傷つく。それでも刑事としてやるべきことはやらなければならない」と教わっていた。

島津はどんなに山村を傷つけようとも、最後まで捜査をすると決心していた。

橘も島津の決意に同意した。

飯田寮出身の食堂従業員と配送員は、それぞれ田端を両手で押したことを認めた。

良子も田端殺害の現場にいたことを認めた。

島津は飯田寮に赴き、事件当時をイメージし、節子、久保、吉野の発言を思い出していた。

島津は誰もいない一係室に戻り、机から山村の事件ファイルを取り出した。

島津は再度、節子と会った。

島津は節子が自分から目をそらし、明らかに話を逸らしたのは、過失殺人ならなぜ黙っていたと聞いたときであるため、山村からできるだけ黙秘するように指示されたではないかと突きつけた。

山村は飯田が罪を犯せば、飯田寮が潰れ、15人の子供が路頭に迷うことになるためと、自分一人で背負い込むため、事件を見逃していた。

島津は山村を尊敬し、山村の教えを支えに生きていることを自覚しており、自分でもどう判断すればいいか分からなかったが、何としても真実を知ろうとしていた。

孤児達は飯田を庇う一心で、それぞれ突き落としたと伝えていた。

飯田は山村に、田端の暴力から孤児を守るため、強く田端を突き飛ばし、田端がよろけて足を踏み外し、転落したと話していた。

山村はあくまで事故と判断し、飯田に気が済まないと言われても、葬式が近づいたときに遺書として書くように促し、帰っていた。

橘と島津は警視庁の警視監に、事件を事故として報告した。

島津は15人の孤児が、パニック状態の中で全員自分が突き落としたという不安にさいなまれ、死亡するまで孤児を案じていた飯田は、その悩みから孤児を解放するため、虚偽の自白書を書いたと説明した。

 

 

メモ

*デュークが海外研修という形で、今回を以て降板。実質的な「さらば! デューク」。

*デュークが「そして又、ボスと共に」まで出演しなかったのは、金田氏の契約やスケジュールとの関係らしい。

*警視庁4万人の中から海外研修生の一員に抜擢されたデューク。割と暴走も多い印象だが、かなり優秀なことが伺える。

*デュークの所在期間は1年2ヶ月。登場した頃の、スコッチやジプシーを思わせる、無口でクールな性格だったときと比べるとやや口数も増え、明るくなった。しかし、それでも他のメンバーとは一線を引いていた。

*今まで、殉職してから本格的に回顧されることのなかった山さんの回顧編。しかし、なぜか山さんの回想シーンには本編の映像が使われず、スチール写真が使用されている。

*今回の「事件」は、「山さんの弟子的存在」で、殉職後に捜査一係の頭脳的存在となり、論理的かつ妥協のない捜査を行い、難事件では突破口とも思える証拠を入手することが多かったデュークだからこそ解決できたのかもしれない。また、デュークは今回、山さんを尊敬していることを打ち明けている。

*稲葉氏は「太陽」では珍しく警察幹部以外の役。稲葉氏のテレビドラマ最後の出演作。

*「疑わしきは」で巡査として初登場し、「バラの刺青」で刑事に昇格した吉野。「夏の別れ」から出番が著しく減少しており、今回が最後の登場となる。

*「エスパー少女・愛」に登場した警視監が再登場。その後、PART2の「逃げる」にも再登場を果たす。

*ブルースが、かつてボギーが着用していたような臙脂色のジャケットを着用。

*デュークがブルースと握手するシーンの際、又野氏が強く握りしめすぎたのか、金田氏が思わず「痛い」と言っているが、アドリブ?

*神山氏と本山氏は「制服よさらば」の組み合わせ。

*「飯田の孤児院変死事件」が発生したのはボン単独期の「辞表」の時期。山さんが一時的に高子の母に隆を預け、一人で暮らしていた頃。当時の捜査員は誰も在籍していない。

*「(飯田は)とんでもない偽善者だよな」ブルース、口が軽すぎ。

*山さんのスチール写真は「さらば! 山村刑事」で使用されているもの。

*警部の台詞の中にボスが登場。病床にて、退屈でたまらないとぼやいていたらしい。

*「捜査に勝つため」、食堂で鮭と鶏の唐揚げとカツを注文するドック。

*「山さんにミスは有り得ない」と、あくまで山さんを信じるドック。

*入浴せずに着替えたため、ドックに背広が汗臭いと言われてしまうマイコン。ドックも当直で着替えていないらしい。

*ロイヤルゼリーを服用するドック。「優秀な働き蜂にしか効かない」としてマイコンには与えず、「七つの刺激を与えるため」に七味唐辛子を勧める。

*机に座っているブルース。行儀が悪い。

*山さんと唯一対面したことがない若手刑事のDJ。

*山さんは自宅の書斎に、捜査記録を書いたノートを保管しており、殉職後はトランクルームに無期限で保管されていた。1977年3月から6月の時点で128冊目であるため、殉職時点でのノートの冊数は膨大なものになると思われる。

*山さんの捜査記録は山さんらしく非常に丁寧に書かれている。

*田端の死は完全な自業自得で、孤児達に責任はない。正当防衛も認められると思われる。

*子供の殺人(自己防衛)は「死」や「教室」でも描かれているが、いずれも被害者の自業自得感が強い。

*吉野の自宅のアパートが登場。

*今回の事件、捜査に一切の妥協をせず、ひたすら真実を追求する方針を取っている山さんが「見逃す」という選択肢を取るのには若干違和感が残る。しかし、山さんは「子供」絡みだとやや脆い部分も描かれていたので、そう考えると納得がいく。

*ラスト、超高級料理店でのデュークの送迎会を企画するドック。しかし、ドックに言わせると「上着を着ていない子供」(DJ)と「無精髭」(ブルース)は参加不可能らしい。トシさんに「居酒屋の方がいい」と意見される。

*警部の奢りで2次会も開こうとするマイコン。会議を口実に抜け出そうとする警部。

 

 

キャスト、スタッフ(敬称略)

橘兵庫:渡哲也

島津公一:金田賢一

太宰準:西山浩司

澤村誠:又野誠治

水木悠:石原良純

岩城令子:長谷直美

 

 

警視監:神山繁

飯田隆三:稲葉義男、飯田節子:本山可久子、田端謙二:宮部昭夫、吉野刑事:横谷雄二

菊池:河合絃司、不動産屋:相馬剛三、五月晴子、佐藤正文、木場一也:鷲生功

友井達彦、星野遊、高杉省吾、杉山綾子、小野田真之(現:三ツ矢真之)

浅野竜夫、本城ゆき、餅田昌代、岸野一彦、本橋映代

 

 

西條昭:神田正輝

井川利三:地井武男

 

 

脚本:小川英、蔵元三四郎

監督:高瀬昌弘