奇跡や復活などをどう捉えるべきか
即ちあなたが、キリストは議会にもピラトにも不信者たちの誰にも現れず、ただ信心深い人たちにのみ現れたこと、神には右側も左側もないこと、自然はどこでも同一であること、神は世界の外の、人間が勝手に作り上げる想像的空間には顕現しないこと、最後に人間の身体の組織は空気の圧力によって然るべき形を保っているにすぎないこと、そうしたことを考えるなら、キリストのこの出現はアブラハムに神が出現したあの出現に(アブラハムが三人の人に会って彼らを食事に招いたときの神のあの出現)似ていることに気付かれるでしょう。しかしあなたは言うかもしれません。使徒たちは皆キリストが死から復活して天に昇ったことを心底から信じた、と。私もこれを否定しません。アブラハムも神が自分と一緒に食事をしたと信じたし、また全てのイスラエル人は神が火に囲まれて天からシナイの山に降りてきて彼らに直接語ったと信じています。しかしこれらのこと並びにこの類いの多くの事は、人々の把握力と見解に適応して生じた出現乃至啓示に過ぎません。そこで私は次のように結論します、キリストが死者たちの間から復活したということは、実際は精神的なものであって、それは信者たちにのみ、その把握力に応じて示されたのであります。言いかえれば、キリストは生と死によって類いまれなる神聖性の例を示したとき、すでに永遠性を獲得し、また死者たち(ここで私は死者ということを、キリストが「死者たちに彼らの死者を葬らしめよ」と言ったその死者の意味に解します)の間から復活したのです。そしてまた彼は、彼の弟子たちが彼の生と死のこの例に従う限りにおいて、弟子たちを死者たちの間から呼び起こしているのであります。なお福音書の全教説をこの仮説にしたがって説明することも困難ではないでしょう。