我々の本性のみによって理解されるような仕方で我々の本性から生ずる慾望は、妥当な観念から成ると考えられる限りにおける精神に帰せられる慾望である。これに反してその他の慾望は、物を非妥当に考える限りにおける精神にのみ帰せられる。そして後者のような慾望の力および発展は、人間の能力によってではなく、我々の外部にある諸物の力によって規定される。ゆえに前者のような慾望は能動と呼ばれ、後者のような慾望は受動と呼ばれる。
受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するやいなや受動であることをやめる。
「神は善だとか全だとか言うなら、なぜ悲しまなくてはならない出来事に遭遇するのか、悲しみの原因も神ではないか。」
これに対して私はこう答える。我々が悲しみの原因を認識する限り、その限りにおいて悲しみは受動であることをやめる。言いかえれば、その限りにおいてそれは悲しみであることをやめる、と。
第四部定理33
人間は受動という感情にとらわれる限りにおいて本性上互いに相違し得るし、またその限りにおいては同一の人間でさえ変わりやすく不安定である。
証明
感情の本性ないし本質は、単に我々の本性ないし本質のみによっては説明され得ない。むしろそれは我々の能力と比較された外部の原因の力、言いかえれば、外部の原因の本性によって規定される。この結果として、すべて感情には我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類があるということになるし、また人間が同一の対象から異なった仕方で刺激され、その限りにおいて本性上互いに相違するということにもなり、最後にまた同一の人間が同じ対象から異なった仕方で刺激され、その限りにおいて変わりやすく不安定である、ということにもなる。
定理33
人間は受動という感情にとらわれる限り相互に対立的でありうる。
証明
ある人間例えばペテロはパウロが悲しむ原因となりうる。それはペテロがパウロの憎むものと何らかの類似点を有するかあるいはパウロも愛するものをペテロが一人で所有しているためかあるいはその他の原因のためである。こうしてその結果パウロはペテロを憎むことになり、したがってまた容易に両者が相互に害悪を加えようと努めることになるだろう。言いかえれば、両者が対立的であることになるだろう。ところが悲しみの感情は常に受動である。ゆえに人間は受動という感情にとらわれる限り相互に対立的でありうる。
備考
パウロは自分自身も愛するものをペテロが所有していると表象するためにペテロを憎むと私は言った。このことからして一見、この両者は同じものを愛するがゆえに、したがってまた本性上一致するがゆえに相互に有害であるということになるように見える。しかし事態を公平に検討するならば、これらすべてがまったく調和することを我々は見いだすであろう。なぜなら、この両者は本性上一致する限りにおいて即ち両者おのおのが同じものを愛する限りにおいて相互に不快の種になるのではなくて、両者が互いに相違する限りにおいて不快の種になるのだからである。つまりペテロは愛するものの現実的所有の観念を有し、これに反してパウロは愛するものの現実的喪失の観念を有する。この結果としてペテロは喜びに、パウロは悲しみに刺激されることになり、その限りにおいて両者は相互に対立的であることになるのである。