自己満足は人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである。ところが人間の真の活動能力ないし徳は理性そのものであり、そして人間はこの理性を明瞭判然と観想しうる。ゆえに自己満足は理性から生じうる。次に人間は自己自身を観想するにあたり、自己の活動能力から生ずることのみを明瞭判然と、すなわち妥当に知覚する。言いかえれば、自己の認識能力から生ずることのみを妥当に知覚する。それゆえこうした観念のみから、存在しうる最高の満足が生ずるのである。
まことに自己満足は我々の望みうる最高のものである。なぜなら何びとも自己の有を何らかの他の目的のために維持しようとはしないからである。そしてこの満足は称賛によって養われ強められ、また反対に非難によってかき乱されるから、我々は名誉に最も多く支配され、そして恥辱に耐えることができないのである。
最も多く名誉慾にとらわれた者は、自分の求める名誉を獲得することについて絶望するときに最も多く自らを苦しめるものである。そして彼は怒りを吐き出しつつも尚自分が賢明であるように見られようと欲するのである。これでみても名誉の悪用やこの世の虚妄について最も多く呼号する者は、最も多く名誉に飢えているのであることが確かである。
しかしこれは名誉慾にとらわれている者にだけ特有なことではなく、すべて恵まれぬ運命を担いかつ無力な精神を有する者に共通な現象である。なぜなら、貧乏でしかも貪欲な者もまた、金銭の悪用や富者の罪悪を口にすることをやめないが、これによって彼は自分自身を苦しめ、かつ自分の貧のみならず他人の富もが彼の忿懣の種であることを人に示す結果にしかなっていない。
徳の第一の基礎は自己の有を維持すること、しかもそれを理性の導きにしたがって為すことである。だから自分自身を知らない者は一切の徳の基礎を知らない者である。
自卑は高慢の反対であるけれども、自卑的な人間は高慢な人間に最も近い。実際彼の悲しみは自己の無能力さを他の人々の能力ないし徳に照らして判断することから生ずるのであるから、彼の表象力が他人の欠点の観想に向けられるときに彼の悲しみは軽減されるであろう。言いかえれば、彼は喜びを感ずるであろう。「不幸な者にとっては不幸な仲間を持ったことが慰安である」という諺はここから来ている。
反対に彼は自分が他の人々に劣ると信じるほどに多く悲しみを感ずるであろう。この結果として、自卑者ほど多く妬みに傾く者はないこと、彼らは是正してやるためよりも咎め立てをするために熱心に人々の行動を観察することが理解できる。
およそ何びとも、自分が善と判断することは、より大なる善への希望あるいは損害への恐れからでなくてはこれをないがしろにしないこと、また何らかの悪は、より大なる悪を避けんがためあるいはより大なる善への希望からでなくてはこれをしのばないこと、これは人間の本性の普遍的法則である。言いかえれば、各人は2つの善のうち自分がより大であると判断するものを選び又2つの悪のうちで自分により小であると思えるものを選ぶ。
この法則から次のことが出てくる。即ち何びとも欺瞞的でなしには自分が万物に対して有する権利を放棄することをよしとしない。
理性は自然に反する何事をも要求せぬゆえ、理性は、各人が自己自身を愛すること、自己の利益を求めること、また人間をより大なる完全性に導くすべてのものを要求すること、一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するよう努めること、を要求する。
次に徳は自己固有の本性の法則にしたがって行動することにほかならないし、また各人は自己固有の本性の法則にしたがってのみ自己の有を維持しようと努めるのであるから、この帰結として第一に、徳の基礎は自己固有の有を維持しようとする努力そのものであり、また幸福は人間が自己の有を維持し得ることに存する、ということになる。第二に、徳はそれ自身のために求められるべきであって、徳よりも価値あるもの、徳よりも我々に有益なもの、そのために徳が追及されなければならないようなもの、そうしたものは決して存在しない、ということになる。
更に、我々は自己の有を維持する際我々の外部にある何物も必要としないというわけにはいかないし、我々は我々の外部にある物と何の交渉も持たずに生活するわけにもいかない。尚また我々の精神を顧みると、もし精神が単独で存在し、自己自身以外の何物も認識しないとしたら、我々の知性は確かにより不完全な物になっていたであろう。これでみると、
我々の追及に値するものが沢山あるわけである。そのうちで我々の本性と全く一致するものほど価値あるものは考えることができない。なぜなら、例えば全く本性を同じくする2つの個体が相互に結合するなら、単独の個体よりも二倍の能力を有する一個体が構成されるからである。
このゆえに、人間にとっては人間ほど有益なものはない。敢えて言うが、人間が自己の有を維持するためには、すべての人間がすべての点において一致すること、即ちすべての人間の精神と身体が一緒になってあたかも一人の人間のようになり、すべての人間が共々にすべての人間に共通な利益を求めること、そうしたこと以上に価値ある何事も望み得ないのである。
この結論として、理性に支配される人間、言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は、他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、従って彼らは公平で端正な人間であるということになる。
このことを私がここに示した理由は、「各人は自己の利益を求めるべきである」というこの原則が、徳および道義の基礎ではなくて、不道徳の基礎であると信じる人々の注意をできるだけ私に引きつけたいためである。