スペインは外交の枠組みでは西洋であり、国力も今より昔の方があったにもかかわらず、音楽の分野では18~19世紀にドイツ・オーストリアを中心に大作曲家というものがかなりの数生まれてくるような流れにほとんど乗れず、ようやく19世紀後半に国民楽派と呼ばれる、民族的要素を取り入れた作曲手法を用いた作曲家が面白いものを作るようになる。その中心的存在はイサーク・アルベニス(1860~1909)とエンリケ・グラナドス(1867~1916)である。フランシスコ・タレガもほぼ同時期(1852~1909)になる。
Granados(1867~1916)
グラナドスは父親がキューバ人であった。
幼い頃からピアノの才能を現し、有名なコンクールに優勝、というような、かなりエリート的な歩みを見せた。
後には教育活動にも力を入れ、弟子の弟子にアリシア・デ・ラローチャなどがいる。
彼の最期は第一次大戦のさなかの船旅中、ドイツ軍の魚雷攻撃を受けて海に沈むという悲劇的なものだった。
「昔風のスペイン歌曲集」(1910年)より
「ゴヤのマハ」
アルベニスはピアニスト兼作曲家で、フランツ・リストに師事しようとしたが、実現はしなかった。
「国民学派」「ロマン派」などと分類されるが、スペイン色が濃厚というわけでは特になく、楽器や形式はそれまでのクラシック音楽のものを踏襲し、和声や曲展開などで複雑なものを用いない、といったところである。
ピアノソナタOp68は1886~8年の作品。
組曲
スペイン組曲Op47は1886年の作品。
Granada
Cataluna
「Sevilla」
「Cuba」
12Piezas caracteristicas Op92は1888年頃の作品。
Torre Bermeja「朱色の塔」
Seis hojas de álbum, Op.165(1890)より
Cantos de España Op. 232 (1898)よりCordoba
マヌエル・デ・ファリャ(1876~1946)
「恋は魔術師」は最初「歌入りの劇」の形で作られたが、不評であった。そこでファリャはこの作品をオーケストラ用の組曲にアレンジし直したところ、うまくいったことから、バレエへの再編曲を決意した。
ファリャはフランス滞在中にエンリケ・グラナドスと同じピアノコンクールに出場したことがある。結果はグラナドス優勝、ファリャは審査員賞をとった。
1914年の第一次大戦勃発時にフランスからスペインに戻り、暫くしてからグラナダに長く腰を落ち着けた。
バレエ音楽「三角帽子」より
Joaquin Turina(1882~1949)
Partita in C Major, Op. 57:
II. Zarabanda
Preludios, Op. 80:
No. 4. Allegretto
スペインのバレンシア州のザグントに生まれる。3歳のころに悪性ジフテリアにかかり、視覚障害者となり視力を失う。8歳でピアノとヴァイオリンの学習を始める。地元バレンシアでフランシスコ・アンティチに、パリのエコール・ノルマル音楽院でポール・デュカスに作曲を師事。短期間スペインに帰国した後、パリに舞い戻って音楽学をモーリス・エマニュエルおよびアンドレ・ピロに師事。1924年に管弦楽曲《子どものための5つの小品》によりスペイン国家賞を授与される。
1933年1月にバレンシアにてトルコ人ピアニストのビクトリア・カムヒと結婚し、一女のセシリア(1941年1月27日 - )を儲ける。1947年よりマドリード総合大学の哲学科・文学科の教授として音楽史を担当した。
Zarabanda lejana(1926~1930)
Tres piezas espanolas
II. Andante moderato
ピアノ曲