ポーランドに生まれたタンスマンはワルシャワにて対位法、楽式論、作曲法を学ぶのと同時にワルシャワ大学で法学と哲学の学位を取得。学業を了えた後パリに渡る。




      ショパン讃歌

 



 

 Suite in modo polonico





 当時の保守的なポーランドの音楽環境とは反対に、フランスでは自らの音楽観が認められ、モーリス・ラヴェルやイーゴリ・ストラヴィンスキーに影響されるようになった(後に自叙伝において、ストラヴィンスキーは極めて丁重にもてなしてくれたと回想している)。またパリ滞在中にアルテュール・オネゲルやダリウス・ミヨーに「フランス六人組」に参加するよう説得されるが、独立独歩でやっていきたい旨を述べて断った。


 

 Cavatina

 

 

 

   タンスマンはきまって自らをポーランドの作曲家と呼んでいたにもかかわらず、フランス語を常用し、フランス人ピアニストのコレット・クラと結婚した。

 

 

 ヒトラーの権勢が上向きになると、血統上ユダヤ人のために1941年にアメリカ合衆国に亡命(ビザ取得に掛け合ってくれたのが親友チャールズ・チャップリンだった)、ロサンゼルスに定住し、同地で同じく亡命中のアルノルト・シェーンベルクと親交を結ぶ。


 戦後はパリに戻るが、ヨーロッパ楽壇における前衛音楽の台頭によって、完全に時流から取り残され、もはや聴衆には目新しい音楽と意識されることもなくなり、創作活動からかつての勢いが失われていった。