日中戦争前年の広田三原則(案)に関する分析から

 日本の戦前の軍部中心の中国大陸への侵略政策や和平交渉の行間から見えてくる
日本側の姿勢は「東アジアに対する上から目線」であり「東アジア蔑視の姿勢」であった

ことが、日中戦争開戦に至る歴史資料の検証からも明らかだ。

 1935年に当時の外務大臣であった広田弘毅が提唱した日中親善策「広田三原則」には
日本の陸軍(特に関東軍)が反対していた。
 日中親善策の方針として広田が打ち出した広田三原則の修正過程には、当時の陸軍

強硬派による東アジア蔑視の姿勢が現れている、といえるだろう。

【 広田三原則(案)の陸軍・外務省による修正過程 】
(1) 外務省側の広田三原則案の前文冒頭
  →  「日・満・支三国ノ提携共助ニヨリ~」
(2) 陸軍側の修正案の前文冒頭
    →  「帝国ヲ盟主トスル日満支三国~」

 結局、強硬意見の陸軍側に配慮する形で、広田三原則の前文冒頭は
「帝国ヲ中心トスル日満支三国~」に修正された。


  また、日本の陸軍等は、日中開戦直前には「支那(中国)は一撃を与えれば、日本に

屈服する。」などと、たかをくくっていたらしい事実も歴史資料などには記録されている。

  以上の歴史事実の分析から、戦前の日本(特に陸軍)が、中国はじめ東アジア地域に

対して「上から目線」であった歴史的な事実が明らかだろう。