「そして南京へ ⑨ 」 内モンゴルに攻め込んた関東軍

 【まとめ】
 昭和12年8月上旬、華北戦線拡大を察知した関東軍も出動の機会を窺ったが、
 参謀本部は不拡大方針に基づき、関東軍の内モンゴルへの出動は認めなかった。

 昭和12年8月8日、関東軍は参謀本部の制止を振り切り、張北に進出。

 昭和12年8月9日、関東軍は軍内部から3個旅団を充ててチャハル兵団を設立。
 「事後承諾的なチャハル作戦命令」を受けた関東軍が、内モンゴル侵攻を開始した。

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 昭和12年(1937年)8月になって支那駐屯軍と中国側の軍の間で本格的な
 戦闘が始まり、華北戦線が拡大した。

 山西省からチャハル省にかけて、日本の支那駐屯軍に対する、中国側の勢力からの
 軍事的圧迫が次第に強まったので、中央統帥部は関東軍に対し、内モンゴル方面から
 一部の部隊を派遣して、支那駐屯軍に協力するよう命令した。

 関東軍は、華北戦線拡大に呼応して内モンゴルに攻め入る独自のプランを持っていた
 ので、中央に対し「内モンゴルへの進出の認可」を求めたが、参謀本部は認めなかった。

 しかし、関東軍は参謀本部のコントロールを振り切り、張北に進出した。

 そして、昭和12年(1937年)8月9日、事後承諾的なチャハル作戦が命令されると、
関東軍は自軍内部から3個旅団を充ててチャハル兵団を設立し、関東軍参謀長の

東條英機中将(後に陸相→首相)が指揮をとって内モンゴルを進撃し始めた。

  昭和12年(1937年)の8月から10月17日の間の関東軍による内モンゴル侵攻の
動きが、日中戦争における華北戦線拡大に影響を与えた可能性は否定できない。
  そして、華北戦線拡大の動きに引き摺られるように、日本軍は中国各地で戦線を拡大

していったのである。