「そして南京へ ①」~日中戦争開戦80周年企画~

【 今回記事の、まとめ 】
 昭和12年(1937年)8月~9月、日中戦争の不拡大方針崩れる。

 昭和12年(1937年)8月15日、上海派遣軍の編成命令。

 昭和12年(1937年)9月1日、第五次増派命令が出された。

 

昭和12年(1937年)の9月末までに上海に派遣された兵員数は数十万。

 

日中戦争開戦時の頃の右翼の人数は日本国内で10万人を大きく超えない

程度の少数派でしかなかった点。

 

結局、軍部や少数派の右翼らの声や態度の大きさに引き摺られて、長期間の

戦争にのめりこんだ日本の歴史事実。

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 参謀総長載仁親王殿下、上海派遣軍司令官 松井石根殿、支那駐屯軍司令官
香月清司殿、近衛師団長...これは、日中戦争開戦の年の昭和12年8月15日に
参謀本部が出した上海派遣軍の命令書の宛名の最初の部分の内容だ。

 日中戦争が全面戦争に突入した当時に出された上海派遣軍の編成命令書には
十数人もの師団長の名前が並んでいる。
 これは、たった1枚の命令書が、実に数十万人の兵士を動員したことが、日本
の軍国主義による長期戦を決定付けることになった事実を示す事例であろう。

 昭和12年9月末までに上海に派遣された日本軍は、当初予定を大幅に上回る
15個師団相当(数十万人)に達した。


ところで、
 日中戦争開戦前後には、中国大陸の状況を知らずに戦争を煽るような国内右翼の数は、
大正末期と比べて3倍に増えたとする説も有るが、増えたといっても、その数は10万人
を大きく超えない規模の少数派に過ぎない。
 ただ、当時の右翼は軍部と繋がりがある団体も多く、左派が言論弾圧により大勢の
逮捕者を出していたのに比べ、日本政府機関や警察は右翼には甘く、声や態度が大きい
右翼や軍の強硬派の大声に引き摺られるかっこうで、日本は軍部独走の軍国主義と
長期戦争の時代へ突入していった。