もう少し親身になってもいい | 首、腰の痛みを根本から治す山田カイロプラティック施術院 沖縄 那覇

首、腰の痛みを根本から治す山田カイロプラティック施術院 沖縄 那覇

ヘルニアや側わん症は手術しなくても大丈夫です。長年あきらめていた痺れや目眩もおまかせ下さい。痛みの根本を治さなくてはけっして治りませんよ。25年で2万人超の施術をしている山田カイロプラティック施術院のブログです。

今朝の琉球新報の(9面)文化の面に(戦争孤児たちの戦後史

研究会代表運営委員)の方が投稿されています。(川満彰)



    「沖縄戦    戦争孤児シンポジウム」に寄せて



「母が、赤ん坊の弟が、木端みじん微塵になって・・・私の

体に死の肉弾がついていて・・・」。当時9歳の女の子の証言

である。



少女は一人でガマに入って泣き、追い出されると次のガマで

は大人に蹴られ「弾も怖かったが人間も怖かった」と振り変

える。そしてコザの(現沖縄市)収容所にできた孤児院に入

った。



沖縄戦で家族を失い、孤児となった人はいったいどれぐらい

いるのだろう。約千人という数字から四千二予人という数字

もあり、その実態は不明なままである。



その実態を知りたくて戦争孤児となった方を訪ねると、数名

から「何をいまさら」という言葉を投げられた。何でもっと

早く調査をしなかったのかという墳りの言葉だった。



難民となった住民は、米軍が設置した民間人収容地区に強制

的に収容された。



その総数は1945年8月時点で約33万人。北は辺士名から南は糸満

まで13か所に設置された孤児院には約千人の孤児がいたという。



田井等孤児院にいた座波律子さん(当時13歳)は「約100人

くらいは12歳以下の子」、「毎日のように山から運び込まれる

小さな子供たちは栄養失調で翌朝までに半数は死んでいました」

と振り返る。亡くなった子どもたちは段ボールに入れられ埋葬

された。



豊見城の少年(8歳)は「大浦集落にいた。わずかな配給だっ

たので3人の兄妹で毎日海岸に出ては食料を漁っていた。孤児

院には入らなかった」と述べる。



戦争孤児の多くは、孤児院へ入ることなく浮浪児のように彷徨

っていたと考えられる。従って、戦争孤児の人数は、孤児院に

いた人数をはるかに上回る。



では、子どもたちはどのような戦後を過ごしていたのだろうか。

収容地区が閉鎖されると子どもたちの多くは親戚・遠縁、もし

くは養子として引き取られた。



そして引き取られた家庭では、学校へ通うことも許されず生活を

支える労働者となった孤児も多い。



屋我地島の親戚に引き取られた8歳の少年は「途中から学校へ通う

ことができず農作業や漁業、スクラップ回収等をやった」と語った。



また、具志頭村の少女(12歳)は兄と一緒に弟妹3人を育てるため

に学校をあきらめ家事をこなした。



国が起こした戦争で孤児となったにもかかわらず、彼らに対し日本

政府はいまだに手を差し伸べようとする姿勢すら見せていない。私

たち「戦争孤児たちの戦後史研究会」代表運営委員の一人、浅井春

夫氏は「戦争孤児は援護法の対象にならず、国家による虐待である」

と述べる。



今回、沖縄大学地域研究所の協力のもとで「沖縄戦戦争孤児シンポ

ジウム」を開催する。多くのになさんのご来場をお待ちしています。

(戦争孤児たちの戦後史研究会代表運営委員)




ここでも日本という国は本当に情けと言う言葉がない国家だと思い

ます。




今日も私のブログを覗いて頂き有難う御座います。