自分の人生に意味があると感じるには、以下の5つを
実感することが必要らしい。

1.仕事に情熱を持って取り組める
2.人間関係が良好である
3.経済的に安定している
4.健康である
5.地域社会に貢献している


きのう夜中にネットを検索していて見つけた記事目
もう一度見たくて探しても、何故か見つからない。

2.3.4.は、いわずもがな、だけど
意外に1.と5.が重要なんだな、と自分の中で
ジワジワ来ているえっ

お給料をもらうことはありがたいけど、
惰性で働くというのは、確かに充実感低いね。

そして、地域社会に貢献したいなんて、今まで
思ったこともなかったけど、最近は
誰かの役に立ちたいと、思うようになってきた。

年をとってきたのかな。
自分だけって、むなしいんだな。


話は変わり。今日、とあるシンポジウムで
これからはよりSNS。SNSで繋がる、寂しくない。
みたいな話をしていた。

何がそんなに寂しいのか。
私はそこが分からないオバケ

私は人間関係に恵まれているのか?
もっと年をとると私にも分かる?

ザッカーバーグは、
社会の透明性が高まれば、世の中は良くなる。
その信念でFacebookを作っていると聞いた。
プライバシーの面で抵抗があっても次第に慣れる。

それらは一理あると思った。

しかし、人には「カッコ付ける」という意識が働く。
その部分に関してはどう考えているのか。

本当はカッコ悪い部分やダメな部分や
その繋がりややりとりが、一番面白いはずだ。

オープンな気質の米国にはないのか。
それとも、これも慣れるというのか。
久しぶりに、心がかき乱れる感覚を思い出した。

と、言っても完璧な「ひとりずもう」

結婚して一年。ケンカもなく、穏やかな日々。

愛犬をふたりで溺愛し、仕事のグチを言い合ったり、
将来について話してみたり、お互いのリズムは
まだずれていない。

彼の友達グループの集まりに、ただカワイコちゃんが
いるだけ。そのグループの集まりに、私も一緒に呼んでもらい
久しぶりに皆で飲んだ。

しかも、まったくもって良い子なのだ。
ただセクシーなだけ。

ああ、こんな事で簡単に動揺してしまうのだな。ドクロ

そこに存在するだけで、気持ちをザワつかせる存在って
いるよね。
私は、他の誰かにとって、そんな存在だったこと
あるのかな。


おや?
アメブロ、Facebookとの連動機能が付いたのかしら?

Facebookには書けませんビックリマーク
日常は、いつ壊れるか分からない。
壊れた日常を、人はすぐには受け入れられない。

3/11に襲った震災を通して感じたことは
たくさんあったはずなのに、結局とても当たり前で
平凡なことしか言えない私。。無力。

被災していない私は、できることをやり、
日常に感謝して暮らすべし。
と、ポジティブに考えていたけれど、
TVを通して見る、あまりの惨事に、もしかしたら
自分は、目を背けているだけではないだろうか。

まだ私も、この2週間あまりの事実を
受け入れられていないのではないだろうか。

と、思い始めている。


妹の友達が、チャリティTシャツを作った。
売り上げはすべて寄付するという、素晴らしい活動。

しかし、そのTシャツのデザインが、イマイチ。
イマイチというか、私は着れない。

妹は、同じようにコメントした母に
「そういう問題じゃない!」と怒っていたらしいが、
母の気持ちも分からなくはない。

ポスターだったら、とても良いデザインなのに。
Tシャツにするなら、着れるデザインにしなくちゃ。

デザインの押しつけは、環境破壊だ。
これは、私がデザイナーだった頃から思っていたこと。

私がこのTシャツを買い、それが義援金になっても、
このTシャツを無駄にするのも、よくないので、
私は普通に、日本ユニセフに募金しました。

私の代わりに、そのTシャツを着れる人が一人でも多く
現れることを願って。


・・・と、しかし、この考えは正しいのだろうか。

支援の考えは、人それぞれだけれど、
Tシャツ作って世間に働きかけている人の方が、
何もしていない自分より、当然素晴らしい。

まず、そのアクションに対してお金を出しても
良いのではないか?
と、今、ブログを書きながら思いました。

やっぱり、妹にメールしよっと。