最近、気になってる場所。

全然深い山じゃないんだけどそんなに車は通らなくて鬱蒼としてるところで、山に入っていく横道があって。

そこを通ると、ナビの地図に「◯◯神社」と表示される。
でもその道はどう見ても参拝用に整備された感じじゃないし、道路から見える範囲に鳥居も無い。

ホントにこんなところに神社が?
日本は山岳信仰の国だから山に神社があるのは不思議はないけど、この道に人が入ってる気配はあんまり無いし、すっかり寂れてしまってるのか?
そもそもお社は現存しているのか?

なぜだか、見てみたくて仕方な〜い

でも、コワーイ😂😂

を繰り返し、回を追うごとに少しずつ侵入距離を伸ばしている笑笑

この怖さって何なんだろう?って、その怖い感覚にとどまって感じてみると。

半分はまぁ、クマさんとの遭遇かな。
ある程度距離があるなら、彼らの領域に踏み入らせてもらってるのはこちらなので、お邪魔してますの謙虚な気持ちでお互い干渉し合わないようにやり過ごすしかないかなと思ってるけど、出会い頭にならないかどうかはやっぱちょっとソワソワはする。

そして、あとの半分。
なにがどう怖いのか。
オバケとかそういうんではない。
畏怖の念というのか。
強いて言葉にするなら、神さまを見てしまうのが怖い、みたいな感じ。

神さまとは…
私は、神さまとは私たちの外側にみんなが共通認識できる白ひげのおじいさんみたいな誰かがいるわけじゃなくて、1人ひとりの人の中に内在するものだと思っている。
その人の中の神性、仏性。
だから、その人にとっての神さまは、その人自身。

ってことは、だ。

私があの神社に向かおうとするとき怖くてたまらないもの、それなのになぜか見てみたくて何度もトライしてしまうものの正体は、私の中の神さま?
私の中の神性?光の部分?

自分の中の闇の部分は、ビリーフリセットの学びを通してそれなりに少しは見てきたけど、私の感じ方だと、
闇を見るのは、「怖い」というより「嫌だ」って感じ。
恐怖ではないけど見たくない、後回しにしちゃいたいみたいな。

で、光を見るのは、「怖い」。
ソワソワドキドキガクブルの中に、少しのワクワクが混じっていて、怖くてなかなか踏み込めないくせに何度も見に行っちゃう。

自分の闇を見るより、光を見るほうが怖いとは…
まっこと真理ナリ…

で、思い出したこの言葉。

〜以下引用〜
わたしたちがもっとも恐れているのは自分の無力さではない。
自分の並外れたパワーだ。
わたしたちが怯えるのは自分の闇ではなく、光だ。
あなたは神の子である。
控えめに活動しても世の中の役には立たない。
周囲の人を不安がらせたくないから縮こまっていようとするのは、少しも賢明なことではない。
わたしたちは、自分の内側にある神の栄光を示すために生まれた。
神の栄光は一部の人間だけにあるのではない。
すべての人の内側にある。
自分の光を輝かせるとき、わたしたちは知らず知らずのうちに人にもそうするように許可を与えている。
自分の恐れから自由になれば、わたしたちの存在は自動的に人を自由にする。

マリアン・ウィリアムソン