ここ数週間は動悸や不安を感じることなく症状は極めて安定している。中途覚醒は持続しているが、すぐに再入眠することができている。病気は良い方向に向かっている。
    そんな時、母親から爺ちゃんが入院したと連絡がきた。高齢ということもあり状態は良くないらしい。僕はすぐに実家に帰ることを決め、その日のうちに荷造りをした。そして、今朝出発し5時間の運転の後昼過ぎに病院に到着した。
病院に入りナースステーションで病室番号を聞き病室へと向かった。病棟はとても静かだった。待合室で話すスタッフと家族らしき人の会話だけが響いていた。しばらく長い廊下を歩き病室にたどり着いた。個室だ。病室の前にはマスクや手袋が置いてある。僕はマスクを一枚手に取り装着した。病室へ入ると爺ちゃんはベッドに横になっていた。酸素、点滴、尿道カテーテル、手袋をつけられ静かに寝ていた。僕が枕元へ行き声をかけると目を開けた。「誰だ?」⁉︎僕は眼鏡を外し顔を近づけた「◯◯かぁ。」覚えていた。母親からのメールには、幻覚が見えるみたいだ、おかしくなった。と書いてあったため心配していたが、普段の爺ちゃんだった。すごく、眠そうだ。目は半開き、酸素をつけているせいか発語は不明瞭だし喋りにくそうだ。それに、随分と痩せてしまった。先月あった時とは別人のようだった。眠そうだったが僕の質問にゆっくりと丁寧に返答してくれた。体調はどうか❓と聞くと「大っきな夢をみてたみたいだ。」と答えた。どんな夢❓と聞き返すと「覚えてない」と話す。僕はちょっとだけ安心した。何故なら、爺ちゃんは苦しんでいないと感じたからだ。爺ちゃんが、そう言ったわけじゃないけど僕にはそう感じた。それに顔はすごく穏やかだったから。きっと悪い夢ではなさそうだ。
 午前に兄が会いに来た。そのことはしっかりと覚えていた。また、昔一緒に働いていた人が来た、歳は40くらいだ。と話す。どこかちぐはぐな会話はあるが、一方でしっかりしているところはある。きっと夢と現実の境界があいまいになっているんだと思った。
   寝たり話したりを繰り返し僕はしばらく爺ちゃんの隣に座っていた。病室の中を眺めていると、足下のオーバーテーブルの上に僕が先日あげたノートとペンが置いてあった。目覚まし時計とコップくらいしか私物が置いていない部屋の中に何故か僕があげたものが置いてある。ノートを手に取り中を開くと1ページ目に爺ちゃんの名前が2つ書いてあった。これは爺ちゃんが書いたのかな?力が入らなかったのか細い線で、ちょっと歪んでいる。もう1つはしっかりとした字だ。母親かな?そして、このノートと、ペンもおそらく母親が持って来て爺ちゃんに書かせようしたのだろう。でも、うまく書けなかったのだろう。爺ちゃんは、短歌を書いていたからもう一度書いてほしいなと思った。その短歌は、すごくよく出来ていたから。
   しばらくして、僕は爺ちゃんに。退屈ではないか?音楽でも聞かないか?何か持ってくるものはないか?と尋ねた。退屈だ。と答えた。しかし、気力が湧かないのか眉間にしわを寄せ「いい」と答えるばかりだった。僕は爺ちゃんに何かしてあげたかった。でも、爺ちゃんは何も望まなかった。「一週間か2、3日だ。」と言った。自分の死期をそう捉えていた。「そんなことはない。」僕は言った。根拠はなかった。ただ、思いついた言葉がそれしかなかった。爺ちゃんは、兄がいつ来るのか、かあちゃんに世話になった。と何度か繰り返し話していた。素直だった、こんな素直な爺ちゃんは見たことがなかった。偏屈で、病院嫌いで勝手に家に帰って来ることもあった。でも、今回は違う。子供に戻ったみたいだ。もっといろんな話がしたいなぁ。僕はそう思った。またしばらくすると、目を閉じる時間が長くなってきた。疲れたのかな?僕は「また来る」と言った。すると爺ちゃんは、弱々しい声で「またかぁ」といった。声の調子や表情から「またはない」と言っているようだった。僕は急いで「また来るから。明日も、明後日も」といいゆっくりと病室を出た。爺ちゃんは、僕が病室を出る前に目を閉じていた。 
    階段を降りていると、急にやるせない気持ちになってきた。何故だろう。多分、僕は爺ちゃんに何かしてあげたい。役に立ちたいと思っていたからだ。しかし、爺ちゃんは何も望まなかった。寂しいのなら側にいて受け止めたい、やりたいことがあるのなら全力で叶えてあげたい。でも、何も望まなかった。僕には何もできることがない。無力だ。数年前に長年飼っていた犬が死んだ時も同じようなことを感じた。死の前に人の力など無力だ。でも、だからこそ僕は、僕にできることをやりたいと思う。
  僕が人の死について思うことは、 どんなに辛く悲しいことが多かった人生だったとしても、最後に幸せだと感じることができたら、人生はいいものだったと思えるんじゃないかと僕は思う。
  明日もう一度、ちゃんと話しがしたいなぁ。釣りの話、戦争の話、婆ちゃんとの話。幸せだった話。話が尽きるまで、僕はずっと側にいるから。