明治最大の洪水と云われる大水害は、明治43年(1910)に発生した。この年の8月5日頃から、梅雨前線の停滞により降り続く雨に台風が加わり、さらには別の台風が続けて襲来するという不幸が重なった。これにより関東各地に集中豪雨がもたらされた。特に荒川や神田川、多摩川下流においては堤防が次々と決壊し氾濫した。その被害は甚大となり、浅草をはじめ東京東部一帯は泥海と化した。山間部では土砂崩れが発生し、電話や鉄道も不通に陥った。記録によれば、死者は769人、行方不明者は78人、家屋全壊は2121戸、家屋流出は2796に及んで居る。

 

 漱石日記には、その時の様子がこう記されて居る。

8月6日、修善寺温泉に転地療養のため菊谷旅館へ行く。

8月10日、雨、夜になって風が加わる。

8月11日、雨激しい。

8月14日、終夜強雨の音を聞く。山声、樹声、雨声、耳を撼(ゆる)かす。三時頃まで眠られず。天明眠覚む。

8月24日に漱石は吐血(500g)し危篤状態となる。「修善寺の大患」と呼ばれるものである。

 

 一方、鷗外日記には、こうある。

8月10日、夜に入りて大雨になる。正門前の崖崩れる。

8月11日晴、指谷に水出でて電車通ぜず。本郷より登衛す。

8月14日、庫の壁の落ちたるを掃除せしめ、木の倒れたるを起こす。

8月16日、水難救護の事を議す。局長会議あり。

8月17日。前より救護隊出ず。

 鴎外森林太郎はその当時陸軍医務局長として、その水難救助の対応に追われて居たようだ。

 

 この水難により、東京本郷区西片台地の元阿部伯爵邸の崖下にあった、丸山福山町4番地の古びた家もその崖の崩落によって破壊された。

 この家は、かつて樋口一葉が水の上日記に、「ささやかなる池の上に建てたるが有けり。守喜と云いしうなぎ屋の離れ座敷成しとて、さのみ古くもあらず。家賃は月三円也。高けれどもここと定む。」と記した一葉終焉の地であった。

 

 この暴風雨が過ぎ去った後、無残にも跡形もなく崩壊した一葉宅の光景を、近松秋江は目の当たりにして居る。

 明治29年(1896)、秋江は上京し一葉に弟子入りするために、この地を初めて訪れて居た。しかし、時すでに遅く、一葉はこの世を去って居たのである。再びこの地を訪れたのは、一葉亡き後、森田草平が住んで居たからであった。

 

 秋江は明治44年(1911)11月1日発行の雑誌・ホトトギスに、「手紙」と云う題で、こう記している。

 

森田君と云えば、私もこの頃同じ牛込の矢来町の近所に家を持ったものですから、時々お邪魔に行きますが、女に好かれそうな人ですねえ。

 あれは去年の夏(漱石日記より明治43年7月25日と筆者推定。その記述は「来客多く、少し頭痛がする。」)でした。夏目先生を訪問しましたら、森田君と生田長江君とが来て居られて、私は、それが森田君に会った三度目でした。

私が「貴下は一葉女史が「にごりえ」を書いた時分に居た家にいられた事があるそうですね。」と聞きますと、夏目先生は、「今も居るんだ。」と言われました。「そうですか、じゃ一つお邪魔に行って、その家を見せて頂きたいものです。」と言って、あの去年の大洪水のあった3,4日後に訪ねて行きますと、あの西片町の崖が崩れて、古い家が圧潰されて居たじゃありませんか。私は吃驚(びっくり)りして、暫らく、人気の無いその家のまわりをうろうろ歩いて見ていました。玄関脇に、矢来町に退いたと云う森田君の貼り紙がしてありました。

 森田草平氏は特に一葉の旧居を好んで行ったのかと思いましたら、そうでもなかった。後で、馬場孤蝶氏が訪ねて来て、「これは、もと一葉の居た家だ。」と言って、それで分かったのだそうですが、私の只今居ります家は、川上眉山が自殺した家の、その前ちょっとの間居た家だそうです。それも後で分かりました。

写真は一葉旧居の南面で、森田草平が住居当時のものである。立って居るのは草平である。

現在はその地に「一葉樋口夏子碑」が建てられており、その付近は紳士服屋となった。

 

 秋江が住んで居た家には、川上眉山が住んで居たと云う。眉山の本名は川上亮。明治2年3月5日大阪生まれ。明治の大洪水の3年前の明治41年(1908)、40歳と云う若さで自ら命を絶った。悲劇的性格であったと云われるが、自殺の原因は今なお不明である。

 

 明治28年5月26日、眉山は丸山福山町にある一葉宅を初訪問した。その当時、眉山は小石川区上富坂町の六角坂上に住んで居た。

一葉の日記には、

「馬場(孤蝶)君平田(秀木)ぬしつれ立て川上眉山君を伴い来る。君(眉山)には初めて逢える也。年は27とか。丈高く色白く女子の中にもかかる美しき人はあまた見がたかるべし。物云いて打笑む時、頬のほどさと赤うなるも男には似合しからねど全て優形にのどやかなる人なり。かねて高名なる作家とも覚えず心安げにおさなびたるさま誠に親しみ安し。孤蝶子の麗しきを秋の月にたとえば、眉山君は春の花なるべし。(略)」

 この頃、馬場孤蝶は本郷龍岡町に下宿し、平田秀木(とくぼく)は不忍池付近の下谷池の端七軒町にある戸川秋骨の下宿に同居していた。彼らの距離は徒歩で容易に行ける範囲であったため、頻繁に一葉宅を訪れ、文学談義に花を咲かせていた。すなわち、一葉宅は眉山の訪問後文学サロンの趣を呈するようになって行ったのである。

 

 6月2日、銭湯に行くついでにと云って眉山は再度一葉を訪れ、「自伝をものし給ふべし」と自伝を書くようにと勧め、一葉は「にごりえ」を執筆することになる。

 その後も眉山は頻繁に来訪し、ある時一葉の写真を所望した。一葉はこれを断ったが、「せめて5日間だけでも貸して欲しい」と無理に借りて行った。結局、一葉から督促されて後に返すことになったが、その後、以下のような噂を一葉は新聞記者より聞くことになる

「この頃世にあやしき沙汰聞こえ初めぬ。そは川上眉山と我れとの間に結婚の約なりたりと云う噂成り。岡やきと云うものおびただしき世なれば、伝え伝えて文界の士の知らぬもなしと云う。あるものは伝えて尾崎紅葉仲立なりとさへ云うめる。」

 共に独身で似合いの年齢である眉山と一葉が結婚し、尾崎紅葉が仲人をするとの噂は、一葉にとっては全く迷惑以外の何ものでもなかった。

 

 文士同士が徒歩で行ける距離に住んで居れば、互いに頻繁に訪れ合い、文学談義を交わす機会が増えることになるだろう。

 その反面、眉山と一葉の例から分かるように、急な来訪など近すぎる関係が時に不快感を生むこともあるのだ。

 

 まあそんなこんなで草平は丸山福山町の一葉旧居から矢来町へ転居し、明治44(1911)年の9月、秋江は小石川区駒井町から草平の近所である牛込矢来町47番地へと移り住んだ。

 当時の夏目漱石の住所は牛込区早稲田南町7番地で、現在は新宿区立漱石山房記念館となって居る。これにより秋江の家と漱石宅との地理的距離がさらに近くなり(直線距離で約300m)、漱石と直接対話する機会が増え、文芸的な環境に恵まれる事になった。

 

 鴎外の「百物語」に対する批評が行われるのは、その1か月後のことである。