鷗外森林太郎と市川團十郎(堀越秀)を引き合わせたのは、弟の篤次郎であるので、彼に就いて少し記して置かねばならないだろう。

 雑誌「歌舞伎」(174冊)の内、第100号までの三木竹二の劇評は、「永久に歌舞伎の羅針盤であり、明治大正昭和前期にかけて、杉贋阿弥の「舞台観察手引草」と双璧をなすものである」と云われている。

 

 劇評家・三木竹二は林太郎の五歳下の次弟篤次郎(慶応3年生(1867)明治41年没(1908))の筆名である。そのペンネームの由来に就いて、従来「森」を分解して、木が三つで三木とし、篤の竹冠と次から竹二とつけたものであると云われている。一読してそうなのかと思うところであるが、果たしてそうだろうか。それなら別に竹欠や馬二でも良いことになる。それに就いて敢えて卑見を述べて置く。

 先ずは姓だけ分解するのでなく、こんな場合には続けて名も分解するのが良いと考えられる。すると「篤次郎」は「竹馬二欠郎」と書ける。これを「竹馬は竹二つ(馬は四脚、竹馬は竹竿2本なので、竹は馬と二に掛かっている)、郎を欠く」と解く。よってそれに従い当時書かれて居た様に縦書きにすると、そのこころは「篤は竺」となり、どちらも同じ意味の漢字となる。つまりいずれも音読みが「トク/ジク」、訓読みも「あつい」で、「篤」の異字体が「竺」なのである。従って姓名の漢字を分解して姓を訓んで略し名を漢文読みすると、「篤次郎は竹二でもある」となってしまうのである。林太郎が「篤二郎」と記していることが少なからずあるが、これは単に「欠」をその字の意味通り省いているだけで誤りではないのである、が、まじめなのか良くわからない。

 こんな具合に森林太郎をも分解して一応読んでみると、五木(ごぼく)太郎、つまり「森林」は5つの薬木の意味か、もしくは「いつき」と読めば「樹太郎」で大樹と云う意味が隠されているようだ。因みに幼少期を過ごした津和野で「五木童子」と記されて居るものがあり、またドイツ留学時代には、石黒忠悳よりその名にアバウトに木(気)が多いことから材木屋と呼ばれている。

 ついでに森潤三郎(明治12年4月15日生)は、三木三閏三郎で、三男なのでやたらと参が多いが数字だけ足すと九木となる。そしてその名に注視すると「三閏(潤)」の異体字が「閏」なので、閏三(月)、つまり4月生まれ(旧暦)である、と雑(九木)に名付けられたのだろうか(笑)。もしそうなら林太郎に負けじと劣らず父静男のネーミングセンスに光るものが感じられるだろう。

 

文京区立森鷗外記念館コレクション展(2017/7/7-10/1)

森家三兄弟のパンフ表紙、デザインセンスあり故拝借した。

 

 さて、篤次郎は兄と同じく東京帝大医科大学医学部(明治24年(1891))卒の医師で、大学附属第一医院脚気課に助手として勤務後、明治29年(1896)9月に中央区日本橋蛎殻町一丁目四番地に呼吸器内科を専門に開業した。またその地は市村座や新富座、歌舞伎座等の劇場へ通うにはアクセスが良い。まあ本職の医業と劇評家とを両立させる為でもあったのだろう。篤次郎の医学的な事績に就いては少ないが、いずれまとめようと思って居るので、今は観潮楼日記の明治25年(1892)10月22日に関連するところに就いて記しておく。それ以外の劇評家の三木竹二に就いて、詳しく書かれたものを次に記して置くので参照されたし(演劇改良運動に関係して林太郎が主でそれに従って竹二に就いて書かれたものは多数あるが割愛する)。

 

〇小金井喜美子著「森鷗外の系属、次ぎの兄」。

〇雑誌「歌舞伎」第100号の故三木竹二追善号(歌舞伎発行所)、同雑誌の112号に100号までの索引が付されている。

〇「鷗外全集(第28~38巻)」の月報に、石川淳著の「三木竹二(1~11)」があり、またその全集中の「本家分家」がよく引用されている。

〇書簡では森鴎外記念館発行の「日本からの手紙(1884-1886)」に林太郎宛の38通、日本近代文学館発行の「日本からの手紙(1886-1888)」には45通が収められており、その中に観劇の報告が散見されて居る。

〇近年に至っては、歌舞伎に精通し竹二贔屓の木村妙子氏によって「三木竹二-兄鷗外と明治の歌舞伎と」(2020、水声社)が出て居る。

〇その他の書に関しては、「三木竹二」(近代文学研究叢書12、昭和女子大学)の中にまとめて詳しくリストアップされてあるが如何せん昭和34年発行なので少しの古さは否めない。

 

 タイトルに掲げた「観劇偶評」は、三木竹二が「しがらみ草紙」などに発表した劇評をまとめたもので、明治29年(1896)12月発行の「月草」に鷗外森林太郎の劇評とともにその後半に収録(p661~)され、「仇名草由縁八房」(M22(1889)/3/31)から、「源平布引滝」(M28(1895)/9/23)までが収録されている。その原本はネット上にあるが読みにくいため、渡辺保氏が編の「観劇偶評」(2004、岩波文庫)が良書であると思う。

 月草以降の竹二の劇評は「歌舞伎新報(M25/(1892)~M30)」や、竹二が主筆で編集を行った、雑誌「歌舞伎」が明治33年(1900)創刊号から明治41年(1908)の第100号(M41/11/1)の「寺子屋研究」に渡って没するまで続いてあるが、それらすべてを集めて単著となったものは、私が検索し得た範囲では未だ見られない。

 

 三木竹二として劇界にデビューしたのは、まだ医大生の時で、明治22年(1889)1月3日読売新聞に掲載された「調高矣洋絃一曲(しらべはたかしギタルラのひとふし)」であり、これは劇作家カルデロンの戯曲「ザラメヤ村長」を林太郎と共訳したものである。同年の3月31日には、劇評「仇名草由縁八房」を同新聞に早くも発表して居る。

 

 明治23年(1890)8月、「しがらみ草紙」11号に「市川粂八様にまゐらす」を発表している(喜美子の「次ぎの兄」p138や、月草p720にも収録)。その中で、「我は大学の一書生なるが、宿世の因縁ありてか、幼少の頃より芝居道熱心にて、故郷にありし時にも親共に連れられて、大阪役者の旅修業に出でしものの興行あるごとに、必ず往きて見候ひき。」と、自身の観劇歴について述べ、そうして市川粂八が團十郎の真似をして得意とするのを、こう戒めて居る。

 

「團十郎の身振り如奈何と問はむに、目を据え口を結び、おもおもしき顔付して、せりふ申すとき頭を左へ傾け、一口毎に頤(おとがい、あご)を右へこまかく振るさま、京童の張り子の虎と申すも、無理とは聞かず。また歩むに、身を少し前へ屈め、膝を曲げず、踵を挙げず、ばたりばたりと無造作に踏出すが團十郎の癖に候。音声に至りては、親七代目の儘(まま)の由にて、八文字屋が疳声引音(興奮した大きな声で長く引っ張る声)にて鼻へかかると言いしは是なめり。或る見功者は、これをどすのきかぬ声を誹り候へども、これなくば、荒事などは勤めらるまじきか。」

 

 先ず所謂「型」を一つ見たわけであるが、「型」とは俳優個人がしばしば自分の身体にあった見せ場、様式的な動きを作るものをいう(渡辺保)。

 竹二は東京大学医学部予備門を卒業する明治18年(1885)頃から芝居の型を研究するための材料として、役者関連の書籍や似顔絵、錦絵など、また様々な角度から撮られた役者の写真を集め始め、その後それらの写真数は千枚以上になったと云われて居るが、早くもその成果が見られて居ることが分かる。

 

 次に観潮楼日記(M25(1892)/10/22)にあった、歌舞伎座の楽屋で林太郎と市川團十郎が物語った日の「皿屋敷化粧姿見(さらやしきけしょうのすがたみ)」の劇評も見ておこう(月草p885、渡辺保氏著「観劇偶評」p291)。

 

「中幕「皿屋敷化粧姿見」は名代の怪談物なれど、時世に連れて御化の逆さ吊りを見ても子供が笑うようになれば、怖がらせようと云う工夫は先ず方無しのはず。

殊更皿十枚のうち一枚を隠し、数を読ませて十枚に足らぬと云うところが狂言の山とは、さてさて無理な仕組み方。それにか弱い女を縄からげにして井戸に切り落とすなど、始終残酷一点張りにて面白きところは煙ほどもなし。されば固(も)と人形で見せし物を役者がこなして見せる故、縛られてあれほどの芸も出来るものかと思いてこそ見ても居られる。

もし身に染みてその場合を思いやれば、限りなき不快の感必ず起こるべし。さればかような芝居が、この後も長く行われることは覚束ないけれど、今度は名におう、団、菊、松の三優が三役につきては極め付けとも云うべき奥の手を出して、後進の手本にすると云うわけ故、彼の美術展覧会の参考品と同じく見て置きて話柄とするは至極よし。われらは見ぬ前にかような出し物は売り出し役者にはよけれど、老年になりし人にはふさはしからず。何もお付き合いだけのことにて、先ず中幕は投物ならんと云い居りしが、見れば滅相の気乗りにて大満足致したり。

されば菊五郎丈(丈(じょう):役者の敬称)のお菊役が艶々しき中に恨を含める凄さ、縛められながら繰り言云う仕打ちのしなやかさ、この役の本阿弥に疑なきこと。

 団十郎の鉄山役が大派手大舞台にこなされ、蟻助の落入りを見ての似非笑、銀煙管を床几につきての横見え、怪異に恐れぬ落着工合より後向きの幕切まで、調子と云い無類別品勿体ないようなれど、色気だけがこの丈の体にないこと。

松助丈の忠太役は皿を見するえぐい仕打ちより万歳楽万歳楽の慌て加減、四谷怪談の宅悦以来の面白さなれど、最一息安っぽい方がこの役には適当ならんかとの贅が言いたくなることなどは、いずれも良き程に致し置くべし。」

 

 この訳はだいたいこんな感じだろう。

 

 お化けの逆さ吊りで怖がらせようとして、逆に子供が笑って吹き出してしまう様では怪談話が台無しになるはず。特に皿の枚数を読ませて、一枚足りないと言わせるところが狂言の山場とは、さてさて無理な仕組み方。それにか弱い女を縄で縛って井戸に切り落とすなど、始終残酷一点張りで、面白いところは煙ほどもない。もともと人形で見せていた物を役者がこなして見せる故、縛られてあれほどの芸も出来るものかと思ってこそ見ても居られるのだ。もし身に染みてその場面を思いやれば、限りなき不快の感情が必ず起こるだろう。このような芝居が、今後も長く行われるとは疑わしいが、今度は名におう、團十郎、菊五郎、松助の三優が三役を演じて、極め付けとも云うべきとっておきの奥義を出して、後進の手本にすると云うわけ故、彼の美術展覧会の参考品と同じく見て置いて話題にするには至極よい。我々は、見る前から売り出しの新人役者には良い演目と考え、老年となった團十郎には相応しくないと思い、また先ず幕の間で演じる中幕(なかまく)は観客とのお付き合い程度の休憩時間で、おひねりの投物くらいの時間になるだろうと思って見ていたが、見ればとんでもなく気乗りがして大満足致した。

 

 竹二は酷評しているにもかかわらず、見終わってみると何故か大満足している。恐らく見る前から大して期待して居なかったが、老年の團十郎演じる鉄山が予想に反してはまり役だったからだろう。

 映像を記録出来ない時代に、歌舞伎俳優が演技に用いた技芸は、舞台で演じた刹那に滅することになる。だが三木竹二は、それを主に「劇評」と「型」にして残すことを試みた。「市川團十郎」(M/35(1902)伊原青々園著)の序で、林太郎が述べて居たように、絵画で云うところの絵画史家ジョルジョ・ヴァザーリやリッヒャルド・ムウテルの如く、演劇においてもその演目の演技演出はかのように、彼の俳優はこのようにと、俳優の演技を「型」にして、客観的に思い浮かべ想像することが出来るように、竹二は後世に伝えようとしたのだろう。

 

 石川淳は「三木竹二(10)」の中で、こう言って居る。

「雑誌「歌舞伎」が提唱に努めたところは、毎月各座の吟味があり、型の記録あり、執筆には主筆当人をはじめ、よくその頃の名家の顔ぶれを揃えて賑やかに、自ずから総合研究のかたちを取って、論におぼれず、横町から大道へと、演劇状況の隅から隅まで巡ったはてに、歌舞伎芝居の現実の姿と、かくあるべき姿とを二重に彷彿とさせて居る。」

 

 また渡辺保氏は、竹二の劇評の意義を以下の如くまとめている。

第一、  戯曲の批評を重視したこと。

第二、  批評の基準を「型」に求め、「型」を記録する仕事を劇評と並行して行った。

第三、  批評は厳しい価値判断と同時に描写を主としている。

第四、  その描写力によって、一世紀を隔てた今日、団菊の面影を目のあたりにすることが出来るのである。

 

 まあ個人的には、九代目市川團十郎が元禄見得を切る場面を、もし竹二が「型」として記録しているならば、暫像を思いみて読んでみたい所ではある。

 

 

 

<追記>

拙ブログ「森鷗外と市川團十郎」で、中村福助を成駒屋4代目の五代目中村歌右衛門(1866-1940)ではないかと思って居たが、誤りではなかった。

渡辺保氏の「観劇偶評」の人名注に、「四代目中村福助、のち五代目芝翫(しかん)から五代目中村歌右衛門。四代目芝翫の養子。代表的女形で団菊の相手役を勤め、二人の没後は歌舞伎界のリーダーとして君臨。東西随一の女形として気品のある芸を得意とした。」とあった。