今年は幸運にも自宅で新年を迎えることが出来たので、正月っぽいものを書いて見せようと思って、浅草寺の市川團十郎像を思い付いた。だんだん調べて行くうちに、堀越秀の遺像を見に訪れた人に、その観光案内の一助を担えれば良いと考えるようになって行ったが、鷗外森林太郎の銘の意図をどこまで正しく汲み取れたのか分からない。
そもそも解読困難な詩形の漢詩で書かれてなければ、鷗外の銘はもっと広く知られて居ただろうと思ったりもするわけである。敢えて漢詩にしたのは、その漢詩が含蓄する力強さや高尚さが、歌舞伎を高い地位に押し上げた堀越秀の演じる暫に、ぴったりと合っていたからだと私は思う。
鷗外は学生時代から大正10年(1921)の59歳まで生涯に渡って漢詩を作り続けている。大正7年に作られた「堀越秀像銘並序」は、技術的にも成熟した晩年に作られたものである。漢詩の優劣については良く分からないが、暫のツラネを述べるところや、元禄見得を切った際の当時の劇場の臨場感が漢詩によって上手く伝えられて居ると思う。堀越秀像銘並序は個人的に当たりであった。これを鷗外漢詩の傑作中の最たるものだと私は評価しておきたい。
堀越秀(九代目市川團十郎)
さて本題であるが、鷗外は、堀越秀が即世してから約7年後に「堀越秀像讃」と題した漢詩を作っている。九代目市川團十郎像が作られる8年前のことである。
その漢詩は鷗外全集35巻の明治43年(1910)3月27日の日記(p481)に、こう記されて居る。
「久邇宮彦王の午饗に招かる。鈴木本次郎筆受に来(き)ぬ。堀賢平の像讃を作り、書きて遣(や)る。紹絶報功。貞風凌俗。汪汪清流。混之不濁。玉水俊虠の修證用心訓に修證一如の四字を題して還す。鴻盟館にて上梓すとなり。」
この日記中の四句からなる四言古詩の漢詩が、鷗外全集19巻(p598)に「堀賢平像讃」と題して収められているのであるが、「堀賢平」は堀越秀の崩し字を読み誤った誤植との事で、これを指摘したのが佐藤敬行氏(「鷗外」71号、2002)である。
しかしよく気づけたものだ。その日記中の鈴木本次郎は、俳優論などを発表した劇評家の鈴木春浦(1868~1927)のことで、鷗外の口述筆記者でもあった。春浦がたびたび観潮楼を訪れて居る事が日記に記されており、鷗外から依頼された写本や安積良斎の調査なども行っている。
その春浦がその日に筆受(筆記)に来ていること、また三木竹二の主宰誌である「歌舞伎」の編集にも従事していたことから、堀賢平が歌舞伎関連の人物であると推測出来たのかも知れないが、とりあえず佐藤氏に敬意を表しておきたい。
また堀越秀の像は、幾つかあったらしいが、「堀越秀像讃」の像も暫像と同様に戦時中の金属回収で失われてしまったのだろう。残念である。
その漢詩の書き下し文(古田島洋介氏)である。
絶(た)ゆるを紹(つ)いで功に報い、
貞風(ていふう)俗を凌(しの)ぐ。
汪汪(おうおう)たる清流、
これを混(にご)せども濁らず。
貞風:節操を堅く守った気高い風格
汪汪:水の広く深いさま。徳が深く厚いことのたとえ。
なお、佐藤氏は「汪汪たる清流」とあるのは、市川の「川」に掛けていると指摘して居る。
以上より現代訳にしてみた。
途絶えていた市川家の名跡を再興し、代々の團十郎の功績に報いて九代目を襲名した。俗世間にまみれず凌いだ、その高尚な品性のある優れた人格は、
まるで市川の川の流れの様に、ゆるやかに澄んだ清流の如く、世俗に混じっても濁らず、とめどなく流れている。
<参考>
美空ひばり「川の流れのように」、1989。