九代目市川團十郎像は、新海竹太郎がその武勇を銅像に製作し、公家であった西園寺公望の題字が高尚を与え、鷗外森林太郎がその至芸を銘に表した。堀越秀の功績を千載に渡って伝える為に、不折中村鈼太郎に書が依託されたのだろう。そう考えると、團十郎像は台座を含めて芸術品なのである。

九代目市川團十郎像の形を「暫」の元禄見得を切った舞台姿にしようと決めたのは、嗣子堀越福三郎の主張に依るものであった。

 

 役者が暫を演じる上で大切にしているものは何であろうか。

17代目市村羽左衛門曰く、「暫の鎌倉権五郎景政を演じる上で大切な事は、大きさと豪壮、弁舌で、その大きさの中にも前髪役としての幼さを見せる事。そして全体的に洒落た大らかなユーモアを何となく漂わせる事である。これらは役者の芸が充実していて、ゆったりとした余裕があって出せるものである。」と。

 歌舞伎俳優が大切にしているそれらを全て銅像で表現するのは難しいだろう。先ず幼さに就いては、権五郎は元服前の前髪を落としていない少年(前髪役)と云う設定で、確かにその銅像にもちゃんと前髪が附けてある。かといってどう見ても、いかついオヤジにしか私には見えないのである。また弁舌に就いても言うまでもなく話すことは出来ない。だが大きさと豪壮、そして洒落た大らかなユーモアを何となく出す事に就いては、よく表現されていると思う。

 

 銅像制作の立場から、新海竹太郎が作る上で大切にしたものに就いて、当時の記者に語った言葉が残っている。

「私は暫を見たことは無い。絵に描いたものを見た位なもので、意味は全く解らなかった。この度銅像の原型を作るについて堀越家から参考品を借りたり、また説明を聞いたりして、ようやく解った様な次第であるから、元より深いことは知らない。要するに「暫」は武勇の権化であって市川家の荒事を代表するに最も適当なものだとは思ったが、しかしこれを依頼されたときは全く経験のないことであるから、どんな結果に行くかと思って多少躊躇したが、だんだん作って行くうちに面白みが出来て、これならば見られぬこともあるまいと思った。しかしそれも自惚れかもしれない。」

 故に新海は詳細に調べよく観察し、鎌倉権五郎景政の不自然極まる服装から、「武勇そのものを表現しようとしたのに相違あるまい」と結論して、それを銅像に表したのである。

 

 武勇を表すには、第一に周囲に居並ぶ人物よりも大きく見せると云うこと。そう見せる為に代々の市川團十郎らが苦心して以下の服装を用いたと新海は見極めたのだ。

 

 侍烏帽子を冠り、翼の様に飛び出している力紙(下の黄矢印)。その顔の左右から突き出た五本車鬢(しゃびん:青矢印)。井戸縄のような襷(たすき)掛けは、力紙と車鬢との関係を保って肩の辺りの力の意味を助けている。

 

 大きな夜具のような衣服を二枚着け、さらにその上に素襖(すおう)を着させ、そこから露出した胸には具足の胴を、前腕には小手を附けて太く見せ、背後の輪になっている縄もそれらと相まって力の強みを増している。そしてこれらの服装に五寸角もある鍔の大太刀(約220cm)を持たせて見ると、大太刀がさほど大きくは感じない。これは全体がそれだけ大きく見えるからであると云う。

「そしてこの大太刀がこの像の生命であり、この大太刀で全体の調和を取ってよく力の意味を表しているように思われる。」と語ってくれて居る。

 つまり新海は権之助の服装から代々の團十郎らの意図を読み取り、写実を重んじた堀越秀の如く細部を見逃さず、大きさと豪壮な武勇を表現したのだと考えられる。

 

 ではさて、銘を担当した鷗外森林太郎が、銘文に表わそうとした大切なものが何であるかは、序文からして團十郎の至芸の技を表す事だろう。

 そもそも歌舞伎の起源は安土桃山時代の「傾き者」、即ち傾くの活用形で、まともでない逸脱した行為を行う無頼の輩が、異類異形のいでたちで徒党を組んで市中を徘徊した事からと云われる。それが当時の社会で流行を来し、朝廷や公家、武士から庶民にまで広く及んでいたのである。だが天下を制した徳川家康は、為政者の立場から傾奇者を異端とみなし、これを朝廷や公家を統制するための口実として、禁中並びに公家諸法度を制定するに至り、それが庶民にまで影響を及ぼしたのである。よって幕末まで歌舞伎が卑しいとされたのは、徳川幕府の規制によるものだろう。一方で「傾き」は、言うまでもなく歌舞伎をはじめ様々な文化的な結実をもたらした。幕府の規制下にあって約300年もの間、代々の團十郎が芝居小屋で命脈を保って来たのは、その優れた技量を発揮した俳優を、多くの人々が支持したからだろう。

 

 と云うわけで、森の序の意図する所を踏まえて銘を読むと解しやすくなる。

 銘の漢詩は十二句の七言古詩からなっており、これは一句が七語で作られ、句数は偶数個で作れば幾つでも自由という規則からなる古詩である。全句に脚韻が踏まれ、その韻は上平声十四寒韻から選ばれ、それを元に中国の漢詩などから引用し組み合わされて作られている。文尾に上平声十四寒韻の韻字韻目表を付け、そこから用いられた語を青字にしておいた。

 恐らく森は、韻を踏んで歌舞伎の舞台のリズム感を出したかったのだろう。故にその脚韻の音読みを付けた。

 

優孟九世傳衣冠(カン)

名噪天下十郎團(ダン)

睅目隆準顔塗丹(タン)

矮軀亦作長身看(カン)

其止端重邱山安(アン)

其動遄迅鵰鶚搏(タン)

音吐訇訇扣金盤(バン)

一呼堪息百夫讙(カン)

奄忽云亡妙技殫(タン)

海澨秋陰葢柏棺(カン)

惟見遺像立江干(カン)

千載兒女增永歎(タン)

 

 次に漢文の書き下し文を、高橋陽一氏の「雑纂中に埋もれて居た森鷗外の漢詩四首」雑誌鷗外91号から引用したが、第十一句の「惟見」をただ見るとしないで「唯(思)い見る」に訂正した。

 

優孟九世衣冠ヲ傳フ。

名ハ天下ニ噪(かまびす)シ團十郎。

目を睅(みは)リ準(はなすじ)隆ク顔丹ヲ塗リ、

矮軀(わいく)亦タ長身二看ナシ作ル。

其ノ止マルヤ端重ニシテ邱山ノ安キアリ。

其ノ動クヤ遄(せん)迅二シテ鵰鶚(ちょうがく)搏ツ。

音吐訇訇(こうこう)金盤ヲ扣キ、

一呼シ堪(かね)テ息(そく)スレバ百夫讙(よろこ)ブ。

奄忽(えんこつ)トシテ云(ここに)妙技殫(つ)キテ亡ビ、

海澨(ぜい)秋陰柏棺ヲ葢(おお)フ。

遺像ヲ惟(おも)イ見テ江ノ干(ほとり)二立チ、

千載二兒女ノ增(ぞうぞう)永歎スル。

 

<第一句>

「優孟衣冠」は、春秋時代楚国の宰相が没し、その子孫が貧困となったため、宰相に恩のあった優孟が、宰相の衣冠を着けて扮して迫真の演技で荘王に子孫の不遇を訴えたところ、荘王は宰相が生き返ったと思い違えた位で、それで詫びてその子孫に領地を与えたと云う故事から来ている。また単純な模倣から独自のものを作り上げると云う意味もあるようで、ここでは馬牛襟裾などの意味で使われていないと考えられる。

<第三句>

堀越秀は写真で見る通り、鼻の幅は広く長いが高いわけでは無い。隈取りで最も派手であるとされる紅色(丹)で塗られた「筋隈」によって、剥きだしたような目や鼻を高く作って見せて居る。これらは全て誇張して強く見せるためのものである。

<第四句>

堀越秀は、決して高身長ではないが、暫で大きく見せる為に5、6寸の高さ(約18cm)の下駄を履いて長身に見せて居たと云う。

<第五句>

端重:端正で堂々。

邱山:丘や山。

<第六句>

鵰鶚(ちょうがく)は、中国に生息するワシミミズク。

遄迅(せんじん):早いさま。搏(たん):はばたく。

<第七句>

訇訇(こうこう)は、大きな音で、音吐朗々は、高く澄んだ音声が響き渡ること。

金盤の金は堅いと云う意味でつかわれているのだろうと(高橋氏)、つまり堅い附け木で附け板を叩いて音を出している鳴り物のことだろう。

<第八句>

一呼は、一声「イヨォー」と周りの者が呼ぶような、お囃子のことだろう。

堪息は、息を堪えてとしたが、高橋氏は「さらに加えて」と解釈して居る。

百夫:大勢の人。

<第九句>

奄忽(えんこつ):たちまち、にわかに、早いさま。

殫亡(たんぼう):尽きてなくなる。

<第十句>

海澨(ぜい):海岸。海辺。

秋陰:秋の曇り空。

柏棺:ヒノキの棺。

<第十一句>

江干(えのほとり):隅田川のほとり、墨江。

<第十二句>

兒女:若い男女、子供たち。俳優養成学校の生徒の事かと思ったが違う。

永歎には長く息をついて嘆くこと、長歎息の意味があるが、感心して褒め讃える、讃歎と云う方を採った。

 

 以上より現代訳にしたが、カッコ内には漢詩の脚韻を敢えて付け足した。これを鳴り物の効果音と思って頂ければ幸甚である。

 

優孟の如く九世代に渡った市川家の技芸衣冠を伝え(カン)、

天下を喧噪に包み込んだその者の名を團十郎と呼ぶ(ダン)。

丹色に隈取って、剥きだしたような目玉を作り鼻梁も隆々と高く見せ(タン)、

また矮軀(わいく:高くもない身丈)をも工夫して長身に看(見)せているのだ(カン)。

その静止は、端正堂々、丘山の不動の如く安定を得て(アン?)、

その躍動は、鵰鶚が遄迅(急速)に羽ばたくが如しである(タン)。

音吐朗々とツラネを述べれば、鳴り物の附け打ちが板を叩いて拍子をとり(バン)、

一声呼んで(イヨォー!)息を堪(こら)えて元禄見得を切れば、応じて観衆が喝采する(カン)。

ところが奄忽(えんこつ:突如)として、ここに至芸の妙技が殫(尽)きて亡び(タン)、

秋陰暗として、茅ケ崎の海辺で柏棺に葢(おお)われたのだ(チーン)。

隅田川の畔(ほとり)に立って遺像を唯(思)い見ると(カン)、

千載(千年)に渡って、大人から子供に至るまで讃歎する人が増していく事だろう(タン)。

 

 これで幕を下ろすつもりであったが、しばらァくゥ~。

 今一度、その雄姿を見てみると、九代目團十郎像に足りないものがある。

 

それは武勇を表す大事な衣装が不足して居るのである。

 

 市川團十郎家の定紋「三升」は、武張ったイメージを表象しているとのことで、その柿色の三個の升を入れ子にした三升(みます)の長素襖(下の絵)が無いことに気付く。

<東京オリンピックの開幕式で座布団とか言われた長素襖>

 

大正6年に作られた暫像の原型にも、やはりそれは無い。

<暫の原型、新海のアトリエ。大正6年撮影>

 新海は何らかの理由で敢えて作らなかったのかも知れないが、昭和61年に復元された現在の暫像とこの原型を見比べて異なる所が幾つか見られる。

 顔の向く方向が正面でなくやや左を向いており、また右上肢の外転具合や肘関節の角度も違う、また太刀を握る左手の位置が高い、など。

 

しかし台座の西園寺公望の題字と森の銘を囲んだ枠が三升となって居る。

 三升の額縁は表裏同じサイズで作られているので、恐らくこの一対を以って代わりとしたのだろう。墓碑の撰文などを多く行った森のアイデアのような気もするが、これによって洒落た大らかなユーモアが、台座を含めた暫像全体から、何となく出ているように私には残像として感じられたのである。

 

 

<韻字韻目表の上平声十四寒>

 

看安難歡殘寛官端闌盤冠干丹餐蘭竿欄乾鸞鞍酸觀壇彈巒玕肝湍瀾漫蟠桓灘丸珊完翰攢單嘆韓鑾槃岏欒刊般紈摶棺漙檀瞞鄲跚圞簞瘢杆驩刓繁潘磐鑽汗謾姍剜攔胖鞶襴柈曼奸磻拚攤巑鼾髖狻貛嘽番絙汍慱頇墁㙢鰻倌芄判癱讕癉莞灤襌敦峘鑚鏝邗萑媻囒鞔貆饅顢鏄羱弁搬剸撣蹣洹涫眢樠剬渜荁迀幋拌槫攛嬗桉釺皖抏酇嚾豻驒垸悗鳱烷羉豲痑睕豌慲躝鴅捖獌縏跘婠鷒驙籣忓槾貚灓耑灡帵忨貒韊檲褍喰灒窤萈繟竱攼梡羦嫨犿瓛芉塼砃犴酄篅荌搫毌椯繵雗螌鍴蠸褩寏曫臗鱄吅嬏媏雃綄嫥鷤臤矕蒰偳靬聅鬗馯虷鋑帴瀊欗煓穳唌糷暕匰躦雈㡩㨏䜱㙔䕊㠆㒼㣋䖂䐷㐤䪍䴟䵎㽃䀂㫨㗄䊡㟨䐽㥇䝎䃲䵊䙁㙢䃪㿻㸩㱚㗈㶥䒥䉔䦡䮧䝔䧲䱗䯈䗙䗕䝜䆺䡽㛽㠝䢿㘓䈲㢖㱍䊜䬧㿪䜌䑌䒟㩛䝳䈀漧亁乹寬宽歓孉懽欢観覌观飱飧湌䬸飡残騨単啴单箪抟団弾弹麰䛒澷澫栞巒攅攢欒鸞圞圝猯貒襌鑽櫕鑚難难奸姦繁桿