堀越秀(1838-1903)、九代目市川團十郎。

「劇聖」の一句は、当時の井上馨外務大臣邸で天覧芝居を供したことで、井上大臣より贈られた。

 浅草寺や花屋敷の塔尖、スカイツリーを望む九代目市川團十郎像、その台座裏に鷗外森林太郎撰文の「堀越秀像銘並序」が取付けられて居る。

 秀が初めて市川家伝統の「暫」を中村座で演じたのは、元治元年(1864)、27歳の時であった。また逸話に、新富座(ガス灯を備えた近代的な大劇場であったが関東大震災で焼失)で、秀が暫を演じた時、一町(約109m)以上も先の往来から、暫のツラネが朗々と聞こえたと云う。

 

  さて中村不折の書は、ありがたい崩し字で浮彫となっているが、それに紙を当てその上から墨を塗って複製保存された紙本墨拓(台東区立書道博物館所蔵)を、ここに拝借する。

 不折とは、これ以外に歌舞伎との繋がりが無いことも無い。森篤次郎(三木竹二)が創刊した演劇雑誌「歌舞伎」の表紙画を7号まで描いている(1900-1915の間に175号まで刊行)。因みに他の号の表紙は長原止水鏑木清方久保田米斎らが担当して居る。

 だがこの不折流の文字を全て正確に判読するのは無理である。故に全文を鷗外全集38巻雑纂の「堀越秀像銘並序」p297より引用する。

 

堀越秀像銘並序

 

大正戊午九月。銅鑄堀越秀演技像成。堀越氏者倡優名閥。世稱市川團十郎。秀其七世第五子。天保戊戌十月十三日。生於江戸木挽街。弱冠以技名天下。明治甲戌七月。襲稱曰九世團十郎。癸卯九月十三日。病歿茅碕別業。饗年六十有六。事具伊原敏郎撰傳中。秀壯遭中興之運。目睹庶事維新。心有所期。誓欲脱倡優之陋習。於是縄己謹廉。遂能爲士林所齒。豈可不謂卓於往。而赫於來者邪。像之成在秀即世十五年後。其嗣福三郎。請陶庵西園寺侯書跌前。又嘱余銘。余嘗與秀相識。喜其為人。且謂倡優之技雖卑乎。有關於教化也。乃為之銘。曰。

 

優孟九世傳衣冠。

名噪天下十郎團。

睅目隆準顔塗丹。

矮軀亦作長身看。

其止端重邱山安。

其動遄迅鵰鶚搏。

音吐訇訇扣金盤。

一呼堪息百夫讙。

奄忽云亡妙技殫。

海澨秋陰葢柏棺。

惟見遺像立江干。

千載兒女增永歎。

 

鷗外森林太郎撰

 

 前半の漢文が序で、後半の漢詩が銘である。

これに就いては高橋陽一氏が「雑纂中に埋もれて居た森鷗外の漢詩四首」(雑誌鷗外91号、p446、森鷗外記念会)の中に詳しく書かれてあり、故にそこから先ずは序の書き下し文を有難く引用する。

 

大正戊午(7年)九月、銅鋳堀越秀演技の像成る。堀越氏は倡優の名閥なり。世に市川團十郎と称す。秀は其の七世の第五子にして天保戊戌(9年)10月13日、江戸木挽街に生る。弱冠にして技を以て天下に名あり。明治甲戌(7年)7月、襲ぎて九世團十郎を称曰(とな)う。癸卯(36年)9月13日、茅ヶ碕の別業にて病歿す。饗年(享年)六十有六。事(事績)は伊原敏郎撰の傳(伝)中に具(つまびらか)なり。秀は壮にして中興の運に遭う。維新の庶事を目睹(目の当たりに)して、心に期する所有り。誓ひて倡優の陋習(ろうしゅう)を脱せんと欲す。是に於いて己を縄(いまし)め謹廉(謹慎廉正)たり。遂に能く士林(立派な人)に歯(なら:同列)ぶ所と為る。豈に往くに於いて卓(すぐ)れ而して来者に於いて赫たりと謂はざる可けん邪(や)。像の成るは、秀の即世十五年後に在り。其の嗣福三郎、陶庵西園寺侯に跌前に書するを請ふ。又余に銘を嘱す。余嘗て秀と相識り、其の人と為りを喜(この)む。且つ倡優の技は雖(もと)卑なりと謂はん乎(や)。教化(まわりの環境の影響)に關わり有る也。乃ち之が為に銘して曰く。

 

 またさらにこれの高橋氏の現代文があるのだが、それをそのまま記すのは面白くないので、伊原敏郎著の「市川團十郎」(序文森林太郎)を底本に現代訳は書き換え(太字)、その下に補足説明を加えた。

 

大正7年(1918)9月、堀越秀の舞台姿「暫」の演技の銅鋳が完成した。

 新海竹太郎が作成した「暫」像は、前年の大正6年に石膏から作成した鋳型の原型が出来上がって居り、そこから銅像が完全に出来上がったのが大正7年と考えられる。大正7年の竹太郎は「元帥大山巌騎馬像」の銅鋳制作を行って居ることが、森の日記に見られる。

また宇野信夫氏の新しい銘には、大正8年(浅草寺資料より)に暫像が作られたとあるが、つまりその年に竹太郎のアトリエから浅草寺境内に運ばれて、森の銘と不折の書と西園寺揮毫の題字が彫られた台座の上に完成したと云うことになるのであろう。

 委蛇録の大正7年(1918)10月27日に「訪中村鈼太郎于根岸。以堀越秀像銘付之。」、同年12月22日に「大矢透、堀越福三郎、新海竹太郎、宮本包則、小金井良精、弟潤三郎至。」とあり、堀越福三郎が何の用で訪れたのか分からないが、これらより森に撰文を依頼しに来たのは少なくとも10月27日以前になる。

 

 堀越氏は倡優(しょうゆう:歌舞伎役者)の名閥(めいばつ:名門)で、世間では九代目と云えば市川團十郎を指すほどである。秀(ひでし)は其の七世(7代目團十郎)の第五子(五男)として、天保9年(1838)10月13日、江戸木挽街に生まれ、弱冠にして非凡な技量を以て歳と共に天下に盛名を博して行った。

 当時の劇評家・勝見門平によれば、七代目團十郎の五男として、天保9年(1838)江戸堺町、和泉屋勘十郎の家で生まれたとある。正妻のお済の他に、妾が3人(お里、お為、不明)居て、その妾の「お為」が実母である。

お済やお里の子らは木挽町の本宅で同居していたが、お為だけは七代目の寵を受け和泉屋の奥座敷に囲われて秀を生んだと云う。なお木挽町や堺町は、徳川幕府が江戸に劇場を建設することを禁じて居たため、その地に芝居小屋が集められ役者も住んでいたのである。

 さて、秀が生まれて間もない12日目に、座主六代目河原崎権之助の養子に出され、長十郎と名付けられた。名門市川家に生まれ、当時劇界の覇者と呼ばれた河原崎家の養子となったことで実に幸運な環境となったのである。その時養父・権之助は独身であったので権之助の母・お常によって8歳まで育てられ、権之助が妻・お光を娶ってからはお光が代わって養母となって居る。

 権之助は秀を優れた役者にするために、幼少時より容赦のない過酷な修業を行ったと云われている。例を挙げれば、暗闇の中で投げられた扇を受け取る稽古や、女役を演じるため股の間に紙を挿んで踊ると云った稽古などである(笑)。また寺子屋へ通い文字を学ばせ、他に三味線や茶、花や琴、絵の稽古なども朝から晩まで精根の涸れんばかりに芸を磨いて烈しい役者修業が仕込まれたと云うが、秀は一日たりとも休まず過度の修業によく耐えたと。初舞台は5歳であったとのことである。

 しかしその後実家と養子先で不幸が続く。

安政元年(1854)、秀16歳の時、兄の八代目團十郎が大阪で自刃。また権之助の娘が没して居る。

安政2年(1855)17歳。安政の大地震で河原崎座が焼失。同母兄の猿蔵が21歳で病死。

安政3年(1856)18歳。権之助の母・お常が病死。

安政6年(1859)21歳。七代目の父・海老蔵(69歳)と実母・お為が病没する。

萬延元年(1860)22歳。七代目の妾・お里が没する。

元治元年(1864)26歳。七代目の正妻・お住が没する。

慶応3年(1867)29歳。権之助の実子河原崎国太郎が19歳で夭折。

明治元年(1868)6月、七代目の次男(母・お済)の重兵衛が家出して行方不明となる。

同年9月13日、権之助が河原崎座再興の素志を遂げ得ずして世を去る。強盗の手にかかって出血多量で非業の死を遂げたのである。偶然にも秀と没日が同じである。

明治2年(1869)3月、31歳で七代目権之助と名乗る。

明治6年(1873)、35歳で河原崎三升と改名。

 

明治7年(1874)7月、九代目團十郎を襲名し市川家の名跡を継ぐ。

 秀37歳。河原崎座の再興と市川家への復籍が遂行され、芝の新堀に河原崎座を新築し、養父権之助の宿願であった遺志を遂げるが、わずか1年で莫大な借金を背負う。

 明治25年(1892)10月22日、歌舞伎座の楽屋で森と秀が初めて出会い物語りする(観潮楼日記)。その日の演目「皿屋敷化粧姿見」の三木竹二の劇評が、渡辺保編の「観劇偶評」(岩波文庫)に収録されている。

 

明治36年(1903)9月13日、茅ヶ碕の別業(別荘・孤松庵)にて病歿する。饗年(享年)六十六歳であった。

<茅ケ崎の別荘、趣味は主に釣り>

 最期の舞台となったのは同年5月の「春日局」。死因は尿毒症。篤次郎がデスマスクをすすめたが遺族は拒否、その作成に藤田文蔵が呼ばれて居たが、9月15日に長原止水によって描かれた「死後の團十郎」の画が「歌舞伎」41号に掲載され追悼とされた。葬儀は仏式をやめ神葬によって青山霊園に埋葬されて居る。

 

九代目の事績に就いては伊原敏郎が著した伝記中に詳らかである。

 伊原敏郎(青々園)は篤次郎没後に雑誌「歌舞伎」93号以降の編集を行い、著書には「市川團十郎」、「市川團十郎代々」等があり、森が序文を寄せて居る「市川團十郎」は国立国会デジタルエディションで閲覧可。

 

秀は壮年期において一旦衰退し途絶えていた両家、河原崎と市川の名跡を再興する(中興の運に遭う)。

 前述、八代目の兄が自刃した翌年、養子先の河原崎座が安政の大地震(1855)による火事で焼失し以後興行権を森田座(後に守田)に奪われる。明治元年(1868)9月養父権之助が強盗に殺害される。秀は亡き権之助の意志を継ぎ明治2年(1869)、七代目権之助を襲名(31歳)。

明治6年(1873)、義弟の福次郎に八代目河原崎権之助の名を譲り、自身は河原崎三升と称す。翌年の37歳の時、市川家へ復帰し安政2年より20年間途絶えていた河原崎座を再興し、並びに途絶えていた市川家の名跡を継いだ。

 

維新の庶事(色々の事)を目睹(目のあたり)して、心中に期する所が有り、

 秀は以下の明治維新の庶事を直接目のあたりにした後に、続いて不幸にも上述の河原崎家の凶事(権之助、國太郎の死)を経験して居る。

慶応3年(1867)29歳の時、10月に大政奉還があった江戸では、12月に兵隊により吉原が襲撃を受け打ち壊され、江戸城二の丸が火事で焼け、薩州屋敷の焼き討ちがあった。翌年(1868)正月3日に鳥羽伏見の戦が始まり、勝ちに乗じた薩長以下20余藩の官軍が江戸へ繰り込み、同年5月15日に上野で彰義隊の焼き討ちがあった。この騒ぎで市中さびれたが秀は市村座の劇場で演じ命脈だけは保っていたと。

 

誓ひて倡優の陋習(見識が狭く卑しいこと)を脱却しようと欲した。ここに於いて己を縄(誡:いまし)め何事に於いても謹慎で廉正な生活を営むに至った。

 明治4年(1871)に元土佐藩主の山内容堂に「勧進帳」を演じたところ、弁慶の能の衣装を与えられ多くの寵遇を受けた。容堂は模範的な華族と云われ、彼から狂言を学びとり、能楽の趣味を理解し、始めて従来の芝居の服装とその動作の野卑なることを知ったと云う。江戸時代に於いては狂言や能は武家の式楽であったので、河原者と卑しめられた歌舞伎役者がそれらを稽古することが出来なかったのである。つまり従来の歌舞伎は残忍卑猥にして、かつ荒唐無稽に流れて居ると考えるに至り、これが活歴を行うきっかけとなったようである。

 また依田学海の言を借りて、「西洋に於いては演劇と云うものが、我が国に於けるよりも遥かに高尚なものとして考えられてあるがため、演者たる俳優も社会より多大の尊敬を受け、従って教育もあり品性も高い由を語って「河原者」と卑しめられて来た徳川時代からの陋習の抜けきらない我が国の俳優に一大猛省を促さん」、とこんな風に同じように考えたのかも知れない。

 

そうして遂に士林(学問や人格の優れた立派な人)と十分に歯(なら:同列に値する)ぶ所となったのである。

 明治19年8月、西洋から帰国した末松謙澄を中心に、政治家では伊藤博文、井上馨、大隈重信、実業家では渋沢栄一、大倉喜八郎、安田善二郎、学者では外山正一、穂積陳重、和田垣謙三等、それに加わった依田学海、福地櫻痴が加入して演劇改良運動が起こり、歌舞伎は高尚なものとなり、秀は翌年に天覧芝居を行って居る。

 また外国の貴賓が来日するごとに、歌舞伎を観覧に供することを常とし、「Danjuro」と云う名はこの頃から欧州にまで伝えられて行ったと云う。

 秀の没後、明治41年(1908)6月、ロベルトコッホが国賓として来日した際に、彼も歌舞伎座で芝居を観劇して居る。同年の6月2日夜、森は歌舞伎座での公演番組筋書のドイツ語訳を、北里柴三郎から託され「Festspiele」と題して訳して居る。

 

過去の梨園においても卓越した存在であり、今日に於いても燦然と輝く舞台上の業績は、未来に於いてもその光芒をますます明らかにしていく存在であると、どうして謂わないでおれようか(豈に往く(過去)において卓(すぐ)れ、而して来者(未来)に於いて赫たりと謂はざる可けん邪(や))。

 

この像が完成したのは、秀が即世(死去)してから十五年後で在り、その嗣子堀越福三郎が、陶庵(西園寺公望の号)西園寺侯に跌前(台座前)に書する題字を請い、また余には銘文を嘱(しょく:依頼)したのである。

 余は嘗(かつ)て秀とは互いに相識の間柄であり、その人と為りを喜(好:この)んでいた。そもそも優れた技量を持つ倡優(役者)職を、もとより卑しいと謂えるだろうか。一般の役者の品行不良の影響が関与して、そのような評価が定着したのだ(教化に關わり有る也)。すなわち、この為に銘にして曰く。

 

以上、序である。