鷗外森林太郎(30歳)の観潮楼日記に、市川團十郎(堀越秀、54歳)と初めて出会った時のことがこう記されている。

 

 「明治25年(1892)10月22日。岡野碩と弟に誘われて、歌舞伎座にゆく。この日始めて市川團十郎と中村福助とを其の部屋におとづれて物語す。

 團十郎は鏡に対して、淺山鐵山に扮する最中なりしが、われ等の入り来るを見て、膝をこなたに押し向け、挨拶す。正直面にあらはれたる好老爺なり。当世にて大喝采を博せむとするには、新戯曲にあらではかなはじなど、おもひ入りたるさまにて言ふ。福助は眉目の貌まことに美しきに、面皰おほし。怜悧にしてものやさしく、よく遜りて愛敬あり。」

 

 日記中の弟は言わずと森篤次郎(25歳)のことで、即ち劇評家の三木竹二(森は木が三つ、竹かんむりに馬の篤から馬(間)を取り、郎(労)を省(欠)いた竹(丈:役者敬称)の竹二)である。

 まあそんな所だろうと思って居たが、つまり林太郎と團十郎を引き合わせたのは、篤次郎であったのである。篤次郎は母・峰子の影響で芝居見物を好むようになり、その年の明治25年1月より歌舞伎新報(明治30年に廃刊)の編集を行って居る。前年の明治24年に東京帝国医科大学を卒業しており、また明治33年(1900)には雑誌「歌舞伎」を創刊して居る。

 岡野碩(紫水)は、週刊雑誌の歌舞伎新報(明治12~29年)の経営を行い且つ編集も行って居り、2か月前の8月26日にも歌舞伎新報社を訪れた林太郎と、新報編纂の事を協議して、その後夕餉(ゆうげ:夕食)を饗している。ちょうどその頃よりライバル紙の新聞に於ける劇評が盛んになりだして居た時期でもある。林太郎は同誌にいくつか寄稿して居るので、篤次郎が歌舞伎新報社主筆にその年に採用された事となにやら関係があるのかも知れない。それから明治27年(1894)には、岡野が篤次郎と長谷久子の仲人を務めて居たりもする。

 なお歌舞伎座は、明治22年(1889)11月21日に木挽街に舞台開きをしてから3年が経って居り、そこで團十郎が鏡を見ながら浅山鉄山に扮している最中との事であるから、恐らく楽屋に入っての話なのだろう。岡野や篤次郎と一緒でなければ、裏方には行けないはずである。

 中村福助の外見に就いては、眉目秀麗な顔立ちをしているが、にきびの様な湿疹(白粉による鉛中毒症状かどうかは分からない)が多いと。だが話してみると怜悧にしてどことなく穏やかな雰囲気があり、よく遜(へりくだ)って愛敬があると云うことだ。

<助六の女方の揚巻役に扮した福助>

この福助を、私は「助六」で相方を務めた成駒屋4代目の五代目中村歌右衛門(1866-1940)と考えて居るが、誰かご存じの方が居ればご教示を得たいものである。

 念のため伊原敏郎(青々園)著の「市川團十郎」を開いて見ると、團十郎と福助は、歌舞伎座でその年の10月に「関ヶ原」の矢野五郎右衛門(落ち延びて居る宇喜多秀家を匿った)役、「播州皿屋敷」の浅山鉄山役、「素襖落とし」を上演して居るとあり、観潮楼日記と一致して居る。

 

 さて、この時54歳の晩年の團十郎は、鏡の前でお菊さんを井戸に投げ落とす浅山鉄山に扮し、その悪役に没入している途中であったにもかかわらず、楽屋に入ってきた林太郎に身体を向けて丁重に挨拶を行って居る。そして真正面から見ると、年老いてもなお生気にあふれ活発な好々爺であったと、そんな風に林太郎は記しているが、話してみると今の世に於いて歌舞伎で大喝采を博するには、新戯曲でなくてはどうしようもないだろうと思い詰めた様子で語ったとの事である。

 

 團十郎曰く、「如何なる役を演ずるにも、その役の性根をしっかりと捕まえて、その役そのものになりきってしまわなければならぬ。かくしてこそ、始めてその人物さながらを舞台の上に現はし得るのである。そしてそのためには、その役、その人物の心を写すことに重点を置かなければならぬ。その人物の外貌その他形的なことも大切であるが、より大切なのは心である。そして心を写すには心を以ってしなければならぬ。即ち大切なのは役者の「腹」である。」と。

世人曰く、これを團十郎の「腹芸」と。

 だからと言って浅山鉄山に扮した團十郎が、鉄山役に徹して思い詰めて居る様に林太郎に怪談風に演技して見せたと言っているのではない。この時林太郎に腹芸でなく腹を割って話していたのだと私は思う。

つまり、洒落たことは言えなかったが團十郎のその辺りに就いて少し掘り下げてみる必要がある。

 

 既にこの時、明治19年(1886)に起こった演劇改良運動により、政治家や学者、実業家らが、忠臣孝子の事をしろ、歴史に違った芝居をするなと注文を付けて居たのである。故に團十郎はこれらを取り入れて、その時代に於ける道具衣装、人物、動作、言語等を写実しようとする「活きたる歴史」、即ち時代物の活歴を演じて旧劇の型を破壊して居た。これが歌舞伎劇を高尚なものにして社会的地位を押し上げたと云われており、明治20年(1887)には明治天皇の御前で天覧芝居を行うまでになって居た。だが晩年の團十郎は脚本に於いて、世俗の人情に精通した河竹黙阿弥を避け、時代物を得意とした福地櫻痴の作を歓迎した。しかし櫻痴の作は無味乾燥なものが多いと云われ、故に團十郎は脚本の選択に重きを置かなかったと評されている。この脚本の選択の誤りが、晩年の團十郎の早すぎる凋落の原因の一つと考えられて居る。

 恐らく團十郎が林太郎に物語った新戯曲は、この櫻痴の脚本の事を云うのだろう。一方旧来からの荒唐無稽な品の無い芸風を好んだ庶民からは高尚物と揶揄され支持が得られず、客足が早くに遠のいて散々な結果となって居たようである。

 林太郎はそんな苦しい低迷時代の團十郎と会って居たのである。團十郎は、楽屋で「徒然草」を読んでいたと云う逸話もあるが、この時林太郎と何を物語ったのかはこれ以上知りようがない。

 これに就いて読者の想像をかき立てる事になるかも知れないが、翌年から團十郎は活歴を断念し、人気を回復し大喝采を博して居るという事を一言述べて置く。

 

次から「堀越秀像銘並序」に就いてもう暫く見て行こう。