大正7年(1918)9月、浅草寺境内に堀越秀(ひでし)が鎌倉権五郎景政に扮して演じる「暫(しばらく)」の銅像が落成した。堀越秀は、世に云う九代目市川團十郎である。秀が亡くなってから15年後に、嗣子の福三郎(十代目)が台座に刻む題字の揮毫を西園寺公望に頼み、銘はかつて秀と親交のあった鷗外森林太郎に依頼した。そしてその銘文の書(字体)を森が不折中村鈼太郎に依託(T7/9/27の委蛇録)し、銅像製作は新海竹太郎がその任に当たった。錚々たる顔ぶれである。

 しかしこの暫像は後に不幸な転帰を迎えることになる。

第二次世界大戦中に、国内のあらゆる物資の不足を来したため、金属回収令(皇族や軍人の銅像を除く)により、昭和19年11月30日多くの銅像と共に市川團十郎像も出征することになった。その際に暫くと三声呼ばれたかは分からないが、石の台座はそのまま取り残された。

 従って現在浅草寺本堂の裏広場にある暫像は、昭和61年(1986)11月3日の12代目團十郎襲名の際に、その記念として同地に復元されたものである。

 新しい銘は昭和の黙阿弥と呼ばれた宇野信夫氏の撰文で、森の銘は台座の裏にあり、その全文は鷗外全集38巻「堀越秀像銘並序」に所収されて居る。

早速その序と銘を見て行きたいところであるが、今しばらァく、林太郎、鈼太郎、竹太郎の三太郎に就いて簡単に述べて置きたい。

 

<帝国美術院の会合写真>

  中央が森林太郎、その左隣が森の遺言により墓の書を依託された中村不折で、森や漱石のデスマスクを制作した新海竹太郎は左手前より2番目に写って居る。この三太郎は日清役での階級は違うが言わば戦友でもある。

 

 明治40年(1907)、西園寺内閣総理大臣のもと、文部省による美術展覧会、いわゆる文展が開かれ、森は全国から出品された作品の審査に当たった。大正8年には文展は帝国美術院に改組され、その初代院長に森が就任し、その会員に中村不折、新海竹太郎らが任じられて居る。

 西園寺と森に就いてのエピソードも少し記しておくと、森がドイツ留学時に大和会の新年会(M21/1/2)に於いてドイツ語で演説を行ったところ、居合わせた駐独全権公使の西園寺に「外邦の語に通暁すること此の域に至るは敬服に堪えず」と称賛されたと独逸日記に記してあり、また大正5年(1916)の雨声会で森は西園寺に書を所望し、「才学識」の扁額を贈られている(森鴎外記念館所蔵)。

 

 さて、「暫」は歌舞伎十八番の内の演目の一つで、元禄10年(1697)に初代団十郎により初めて演じられ、二代目によって「暫く」を三声呼ぶ演出が創始されたと言われて居る。

 中啓(扇の一種)を持つ右手は後方へ張り、左手で大太刀を握り、左足を大きく踏み出して構えた、即ち元禄見得を切ったポーズは豪快にもその周囲を威圧して居る。江戸の見物客は、伝統的に市川家の江戸役者総本家として親しみを寄せ、荒々しく豪快な演技(荒事)の中でも、最も豪壮であると云われるこの芝居を、めでたい正月に観て楽しんで来たと云われている。

 この「暫」に就いての演目の解説が幾らかあった方が良いと思うので、以下に簡略に記しておく。

 

 時は平安後期、鶴岡八幡宮の社頭で、清原武衡が関東諸国を切り従え、関白宣下式を執り行うところから「暫」の舞台は始まる。

 

<清原武衡>

 成田五郎や鯰坊主をはじめ武衡の家来たちが居並び、武衡の武運を祝して居た。下座には加茂義綱、許嫁の桂の前、その家来や侍女たちが引っ立てられている。鶴岡八幡宮の額堂に、加茂義綱が商家で使用される大福帳を奉納しに来たことに、朝廷に対して不届き千万であるとする武衡の怒りに触れたからであった。

 ところが義綱が「朝廷の繁栄を祈るために奉納したのに、それを不届きとは何事だ」と逆に罵るので、武衡は益々憤り、配下の成田や鯰坊主らに義綱を成敗するよう命じた。

<腹出し>

即座に、腹出しらの家来が義綱や加茂家の人々を切り殺そうとした矢先、遠くから「暫ぁく」と大音声が聞こえてくる。武衡の家来らは、声をかけたのは何者だと驚いていると、そこへなおも「暫く、暫く」と呼びながら鎌倉権五郎景政が現れ出て来る。

 

「そも先ず、うぬは何奴だェ」と訊く武衡の家来。

<鯰坊主(鹿島入道震斎):鯰のような顔塗と髪の坊主>

景政は、「東夷南蛮北狄西戒、天地三つを用い、合わせて三升の三本太刀は・・・(略)」と、音吐朗朗、暫くのツラネ(長々と述べるセリフのこと)を述べる。

武衡が怒って家来に引き立てるよう命じるが、景政はビクともせず、ここで元禄見得を切る。

 そして景政は、何故この人々の首を刎ねるのだと詰問した上、武衡が朝廷の許可なしに冠をつけていることの横暴を責めただし、さらに朝廷護剣の雷丸や探題の印を盗み出したことを暴きだして、武衡から取り戻すことに成功する。

 そこで景政は、これで義綱と桂の前の祝言もめでたく出来ると、先に加茂家の人々を帰らせるが、悔しがる武衡の家来が大勢で景政を取り囲む。すると景政は大太刀一閃、彼らの首を一瞬に打ち落とし、悠々とその場を去って行く。

 

 端折ったところもあるが以上である。

 

 

<追記>

「しばらくのそとね」東京大学学術資産等アーカイブズポータルより。

古来より鯰が地下で暴れると地震が起きるとの言い伝えがある。その鯰を鎮めるための霊石(大部分が地中に埋まって居る)を要石と呼ぶとのことで、この絵は鎌倉景政が要石で鯰坊主を押さえつけている鯰絵である。

先述の演目「暫」で、鎌倉景政が元禄見得を切る前に、「暫くのツラネ」を述べた後に、鯰坊主を退けていたが、当時の人々はこれを文字って、地震が来ると家が倒れて「しばらくのそとね(外寝)」とならない様に、鯰坊主を大鯰に見立てた鯰絵を地震の護符としたと云われている。

 九代目市川團十郎像の石の台座が要石となって、地下の鯰に暫くどうぞ(銅像)鎮まれと、ご利益があって欲しいものだ。