薬学の独立を果たすには、医薬分業は為さねばならなかったのである。なぜなら医師が調剤権を握っている限り薬剤師は生計を立てることが出来ず、そのために薬学を志す学生は増えない。薬剤師が増えないことには現実的に分業が行えず、ますます調剤権を得ることが遠のいて行く事になり、やがては行き詰まる事になるからである。

 

 学問的見地から見ると、丹波敬三博士の唱える医薬分業論はごもっともである。しかしその演説で医家が不経済になることが論じられていない。それが医師らの反発を招くことになったのだと私は思う。

 先に見た丹波演説では、医薬分業となれば患者の診療費がむしろかさむことはなくなると云うもので、患者の負担は医薬兼業では3~4円、医薬分業では2円80銭になる(丹波敬三⑦)と云うことであった。仮にそうなるとすれば、医家の収入は兼業で得ていた3~4円よりも、分業となれば2円に半減することになる。割を食うのは医家だけである。このことが述べられていない。そしてその説明なしに、「破廉恥の甚だしきものにて與に歯(よわい)するに足らざるなり」、と反対する医家を痛烈に非難している。これはあまり良い方法とは云えないが、丹波博士のお怒りはごもっともなのである。

 

 そもそも長與専斎の医制には医薬分業の方針が示されて居たので、本来ならば薬律に附則が付けられることは無かったのである。蓋を開けてみれば医薬兼業のままで、丹波博士にとってはまさに青天の霹靂であったのだ。それに大きく関与し中心に居た人物は、長谷川泰であると考えられている。

 

 長谷川泰は自ら創設した西洋医育成のための済世学舎に薬学科を設立し、講師に丹波博士の親友である飯盛挺造を招き、医薬分業の必要性を早くから指摘して居たのだが、薬律制定に当たって附則を付け足すよう運動し、医薬分業に反対を唱える急先鋒となったのである。この長谷川の裏切りともとれる行為に、丹波博士は人間不信に陥らず、忍耐して感情的にならずによく頑張ったと褒めてやらなければならない。

 長谷川泰が反対派に回った理由に就いては後で述べることにして、その薬律の附則を削除するにためには、議会で賛成を得なければならない。従って丹波博士が先の演説で専ら素人に対して詳述することにこだわった目的は、世論を喚起して議員を動かし薬律を改正することに他ならない。

 

 さて、鷗外全集34巻(p743)に「医薬両業の関係を論ず」(明治23年(1890)12月29日発行)が所収されて居る。これを読み解くために、丹波博士の「医薬分業に就いて」を読むことが必要であったのだが、これだけではまだ十分ではない。

 丹波博士は、明治22年4月に「医薬分業に就いて」の演説を行って、それからその翌年に京阪北陸地方巡遊のついで、明治23年(1890)8月30日に富山市に来遊する機会を得て、その地で演説して居る。

「医薬両業の関係を論ず」に関連して、その富山での講演内容を確認する必要がある。

中外医事新報の雑録(255号p43、256号p43、1890年)に「富山市に於ける演説」との題で掲載されているので、これを自分が分かりやすいように一部省略し以下に書き出して置いた。

 

 

 「富山県富山市は古来より売薬をもって著名な土地であり、その売薬の販路を推し広めたのは如何なる原因によるものなのか。余はこの事に就いて従来より研究したいと考えて居た。

 余が今回聞知した所によれば、富山の旧藩主(加賀前田藩の支藩の富山藩十万石の二代藩主前田正甫(まさとし)の時代に始まり、十代藩主利保が研究と教育を行い富山の薬売りは藩財政に貢献する。)の周到な売薬業の奨励によるとするものが最も有力な原因の一つである。

 また(「先用後利」と云う)薬を売捌店に前もって預けて置き、その代金は薬を使用した分だけ翌年に勘定すると云う、即ち売捌店に対して寛大な信用を贈ったことも、その販路を広めた一大原因となったのだろう。

 

 しかし近年、その信用が落ち販売高が減じている傾向があると云う。

 

 今日、各地の著名な市町には少なくとも2,3人の大学卒の医師が赴任することとなった。これらの新医学者の応用する薬品は、ことごとく峻力性のある精製薬石からなり、古来より漢方医の慣用している草根木皮の比ではない。その奏功においても数倍の差が見られている。これに反して富山の売薬は依然として、漢方医と同じ草根木皮を用いて原料とし、今日の医師の応用する精製された薬品を使用することが出来ない。これは法律上、売薬者が製薬することを禁止されて居ることと、売薬者の不学不注意によるものの結果であり、医用薬の信用は厚くなる一方、売薬の信用がますます減退する一大原因となって居る。もしこのまま挽回することが出来なければ、売薬の信用はついには地に落ちていく事になるだろう。

 

 富山市のように売薬を一大産物と頼みにする土地柄に於いて、今日その信用を維持して著効のある売薬を製出するためには、売薬に改良を加えその製剤中に劇薬を始めとした峻力性薬物の配合を必要とする。富山の売薬の一つに、昔時有名となった薬に「妙振り出し」があった。これは感冒時に非常に需要があったが、近来「アンチフェブリン」を購買し自ら服用する者が多く、これにとって代わられて居ると聞く。

 富山の売薬二百幾十種の中で、特に「反魂丹」(天和3年(1683)に備前岡山の医師万代常閑が前田正甫に調製法を伝授したのが始まりとされる。反骨魂の丹波の略ではない)のように世上広大な信用を得た薬もあるが、これが今後もその販路を押し広めて行くとは思われない。

 ある売薬人は医術が進歩するにしたがって売薬は廃滅すべきものであると言うが、一概にそうでもない。かえって世の開明におもむき、医学が進歩するに従って益々旺盛していく状況が無いわけではないのである。かの欧米諸国のごとき医師の診察料高価なる所に、売薬の益々盛なるを見て知るべし。

 

 我が国で特に富山市のような売薬によって物産の上位を占める場所柄にして、これまで全国に販売の根拠を占めた、この一大富源が廃滅することを気に留めないで置くことは、決して良策と云うべきではない。言うまでもなく、これに匹敵する他の産業を興すのは非常に困難であるだろう。

 故に余の愚考によれば、従来の売薬に改良を加え、あくまでもその販路の減少を防止しなければならず、他にその方策はないのである。富山市の市民が一致団結して売薬の原料中に有力薬を配合しえる手段を講ずるべきである。

 

 考えてみると目下のところ政府に禁令があり、これらの実行は一般衛生上劇薬を使用する上で注意を怠れないので極めて困難な業であると言わなければならない。

 なぜかと云えば、我が国の売薬家の最多数は薬学の知識がなく、これに劇薬などの配剤の取扱いを許すことは、あたかも小児に利刀を授けるに等しい。これが現在売薬家に劇薬の配合を許可することが禁じられている一大原因である。

 故に今日の売薬家は一層奮励して薬学上の智識を得ることに注目し、充分に薬学教育を受けた者に配剤取扱いを任せれば、自然と有力な薬剤を発売して世上の信用を回復するだけでなく、政府の禁令にも影響することがないとも限らない。

 薬剤師による医薬分業論のように熱心に計画する事業を急務として居るが、富山市に於いては特に一般薬剤師を養成する目的が最も目下の急務であり、売薬の改良に尽力することである。

 

 ところがある人は云う、「今日急務と云うのであれば、後進の薬剤師を養成するような迂遠の方便によらず、既成の薬学士を招聘して雇えば良い」と。

 今の薬学士は、学術研究を目的として成学した人であるが、富山市のように特別の事業には縁が遠いだけでなく、その人員も少なく大いに欠乏している。故に富山市の為には、当市に留まろうとする感情ある子弟を薬学士に養成し、年々若干名でも増やしていくべきである。

 

 当市固有の実業として、ただ売薬の改良のみだけでなく日本薬業市場の一大要地とならしめるよう尽力することを望んでいる。」

 

 

 なお、東京帝国大学教授丹波博士の富山市での講演後、明治27年(1894)2月1日に共立富山学校が開校しているが、初年度から学生がなかなか集まらずわずか3年で、明治30年(1897)に廃校となり富山市に移管されている。

 

富山薬学専門学校開校式(大正11年ごろと筆者推定)に於いて。

右から丹羽籐吉郎、丹波敬三、山田薫、長井長義。